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日本にもアヘン戦争がやって来た!

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ペリーの黒船の向こうに、アヘン戦争の惨禍が透けて見えていました。

目次

アヘン戦争

18世紀前半の英国と中国の間の通商は、中国製陶磁器や生糸の人気に加え、ティータイムの普及による中国茶の需要増で、英国の大幅な輸入超過により、英国からの銀の流出過多となっていました。

この問題解決のため英国が行ったのは、アヘンの密貿易でした。
当時すでに英国の植民地だったインドで製造したアヘンを、大量に中国に密輸入することで、貿易額均衡を図ろうとしたのです。その量は、1776年に年間2百箱(60kg/1箱)だったのが、1800年2千箱、1830年2万箱、1837年4万箱弱と急増し、その経済効果は英国国家収入の柱の一つにまでなりました。

一方中国では、200万人ともいうアヘン中毒者が生まれ、彼らが消費するるアヘン代金として大量の銀が流出し、国内経済と国家財政が破綻に瀕しました。

中国政府は対策としてアヘン密輸禁止を厳格化し、1893年英国商人のアヘン2万箱余りの焼却を武力により強行しました。
英国は報復措置として、1840年4千人、1841年1万人を派兵し、中国政府はこれに屈服して南京条約が締結されました。

南京条約は完全な不平等条約で、中国は多額の賠償金のみならず、香港割譲や治外法権を認め、関税自主権を喪失しました。
のちに米仏とも同様の条約を結び、自由貿易の名の下に、中国はこれら国々の半植民地と化しました。

Edward Duncan, Public domain, via Wikimedia Commons

幕府は蒸気船を恐れたのではなかった

1853年、ペリー率いる米国艦隊が姿を現した時、日本人は初めて見る蒸気船に驚嘆し恐れをなしたと謂います。
黒煙を噴き上げ、水飛沫の中で巨大な外輪が回転しながら動く巨艦の威容に、確かに一般の武士や下々の人々は圧倒されたことでしょう。
しかし海岸には大勢の人々が群がって見物していたのですから、それは恐怖ではなく興味の為せる業だと言えます。

つまりほとんどの日本人には、他国からの侵略という問題意識はなかった筈です。せいぜい鎖国令に係わる事案として、政治的問題となった程度でしょう。
ただ幕閣や開明的藩主の一部には、この事態に戦慄を覚えた人々がいました。それは10年余り前のアヘン戦争の実情を熟知していた人々でした。


強大な武力を背景に自己に有利な通商をゴリ押しする、西欧列強国の外交手法。否応なくそれを受諾させられた中国の悲惨な現状。
その情報を得ていた幕府は、武力衝突回避を最優先に外交交渉を始めました。

表面的にはそれは弱腰で天朝無視の開国政策に見え、アヘン戦争を知らない多くの武士達は、只々勇ましい攘夷を叫んで討幕に向かって奔走を始めます。
彼ら攘夷志士の内のいくらかが妄想幻想から目覚め始めるのは、外国軍の強大な戦力を目の当たりにする、薩英戦争や馬関戦争を待つことになります。

もしも

今、日本の国民・政治家は、尖閣や沖縄周辺で武力衝突が起きて、日本人が実際に死ぬような事態になる前に、世界の情勢を正確に直視して道を選ばねばなりません。

歴史大好きじいさんです。
幕末の開国派が真に恐れたものとは・・。

featured image:Edward Duncan, Public domain, via Wikimedia Commons

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