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ヒグマの逆鱗に触れた若者たち「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」

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ワンダーフォーゲルとは、仲間と野外活動を通じて自然に親しみ、自身の心身を鍛えることを目的とする活動の事をいう。
本来、彼らもそうなるはずであったが、若人達の希望は無残にも山に散ることになる。
北の大地の圧倒的な覇者、巨大なヒグマの手によって。

目次

冒険の準備

1970年(昭和45年)夏、九州・福岡から北海道の背骨、日高山脈を目指す若者たちがいた。
「福岡大学ワンダーフォーゲル同好会」・・・登山歴2年以上で合宿経験も豊富なリーダーA(20歳)、サブリーダーB(22歳)、2年生部員C(19歳)、1年生部員D(19歳)とE(18歳)。この5人で構成される男子大学生パーティー。
(事件名は「部」となっているが事件当時は同好会。以後 福岡大)

日高山脈北にある芽室岳を出発点とし、山脈中部に位置するペテガリ岳までを13日間で縦走する計画であった。

パーティーは7月14日に予定している、芽室岳の入山に向け、夏山登山の装備や医薬品、食料の準備、行程完遂のためのトレーニング、情報収集に勤しんでいた。
特に情報収集についてはガイドや地図を読み込むと同時に、すでに日高山脈縦走の経験がある他大ワンダーフォーゲル部から資料を取り寄せたり、北海道大学の関連する部活に情報を問い合わせるなど余念がなかったという。
装備、食料の準備、日程の検討やメンバーの体調の把握、そして行動計画の策定。
パーティーは彼らが考え得る限りの全ての面について万全を期し、7月12日、目的地に向け博多を出発した。

順調な滑り出しとヒグマとの遭遇

北海道に到着した彼らは、登山計画書等の必要な書類を清水町営林署に提出。
入山許可を受けて予定通り7月14日、芽室岳登山口より入山した。

夏であるにもかかわらず、見られる雪渓や九州の山々に自生するものとは違う植物。
そしてなにより、困難な道のりを達成した者だけが味わえる雄大な景色を堪能しながら、パーティーは協力して山の厳しさを乗り越えていく。

芽室岳を経てルベシベ山、ピパイロ岳、戸蔦別岳、幌尻岳と日高山脈の山々を踏破し、7月25日にはエサオマントッタベツ岳の山頂に到達。
15:20頃、春別岳南側の九ノ沢カールにテントを設営し夕食をとった。
食後、5人はテントの中にいたが、テントの外に体長2m程のヒグマがいるのをリーダーAが発見する。

登山者がヒグマに襲われたという記録は、戦後、十勝エリアにおいて残っていない。
事前の調査や直前の入山時にも、ルート上に凶暴なヒグマが出るという警告はおろか情報すら聞いていなかった。

そのヒグマの本性

本州にもツキノワグマがいるが、ヒグマは北海道にしか生息していない。まさにこの北海道まで来たからこそ出会える生き物だった。
そのためか5人は恐怖を感じるというより好奇心が勝り、写真に収めるなどして、しばしこの珍客の来訪をテントから見物していた。
しかし、偶然現れた北海道の大自然の象徴を見物する、長閑とも思える時間は突如一変したのだった。

1度目、2度目の襲来

ヒグマがテントに近づき、キスリング(登山で使われるザックの一種、横長の四角い形が特徴)を漁り、食料を奪っていったのだ。
ヒグマの突然の行動に驚いたパーティーは火を焚き、ラジオや食器で音を立てて応戦する。
けたたましい音を嫌がったのか、なんとかヒグマを追い払い荷物を取り返すことに成功が、一安心したのも束の間、同夜再び襲来し5人のいるテントに襲い掛かったのだ。

テントを隔てているとはいえ、パーティーとヒグマとの距離は獣特有の激しい鼻息が聞こえるほどの近さだった。
ヒグマはテントに人の握りこぶし程の大きさの穴を開けると、夜の闇の中どこかへと消えた。
ヒグマの再来に身の危険を感じた5人は次の襲来に備え、2人1組で交代しながら見張りを続け一晩を過ごした。

3度目の襲来

翌日7月26日 3:00にはパーティー全員が起床し食事や身支度を済ませる。
荷物のパッキングを行っていた4:30頃、三度ヒグマが現れた。
このヒグマは体の大きさや毛の色から見て、昨夜現れたのと同一個体だ。

キスリングを慌ててテントの中に運び入れ、5人全員がテントに避難する。
そのまま恐怖が過ぎ去るのを息をひそめ待っていたものの、5人の祈りを嘲笑うようにヒグマはテントへと近づき、内部へ侵入しようと入口をひっかき始めたのだ。
パーティーはテントが倒れないよう内部から必死に支柱を握り締めていたが、ついにヒグマの侵入を許してしまう。

5人はテントの入口と反対側より一斉に脱出し、50m程走ったところで元来た方を確認してみると、ヒグマはテントを倒しキスリングを引っ張り出し中身を漁っていた。
メンバーは自分たちだけでは対処しきれない危険な状況だと判断。
リーダーAは、サブリーダーBと1年生部員Eに、営林署へ向かいハンター出動要請をするように指示した。

悲劇の予兆

7:00頃、BとEは急ぎ下山する途中の10人程で編成された北海学園大学のパーティーに出会い、営林署と大学への連絡を依頼。
北海学園大学は福岡大と同様にヒグマに襲われ荷物を放棄しての下山中だったため、この頼みを快諾し、残った3人の元へ戻るというBとEに食料や装備を分け与えた。
戻りの道中で2人は、中央鉄道学園や鳥取大学のパーティーにも出会い、ヒグマが出た旨の注意喚起をしながら仲間の元へと戻って行く。

その頃、残っていたリーダーAとC、Dの3人はヒグマの動向を監視し、隙を見てテントやキスリングを奪い返し、カウイエクウチカウシ岳近くの稜線に移動していた。
13:00頃に待機組3人とB、Eが合流。
5人全員がそろったところで安全そうな場所まで移動し、ヒグマに破られたテントの修繕をしながら夕食の準備を始め、夜に備えていた。

4度目の襲来

16:30頃、夕食を終えテントを設営し就寝準備をしていたところに、またしても件のヒグマが現れた。
就寝前のため装備を解いていた5人は着の身着のまま慌ててテントから逃げ出し、縦走路を50mほど駆け下った。
5人全員が息をひそめテントの方を監視していたが、ヒグマはテントに居座り動く様子はない。
Aがテントのそばまで様子を伺いに行ったり、メンバーの2人が付近にいた他大学に助けを求めに行くなどしながら約1時間半もの間、パーティーとヒグマ両者のにらみ合いは続いた。
しかし結局一向にヒグマが動く気配がない。
周辺の偵察に行った2人を待っていた3人は、八の沢カールにこの日の陣を構えてたいた鳥取大学のテントに向かうことを決めた。
移動の途中、鳥取大学のテントを確認してきた2人とも合流、5人全員で鳥取大学のテントへと向かうことにした。

・・・もしもヒグマにテントを急襲された時点で全員で下山する決断をしていれば。
・・・もしもBとEが北海学園大学のパーティーと共に行動していれば。
・・・もしもキスリングや荷物をヒグマから取り返さなければ。

結末を知ればこその「もしも」ではあるが、この後5人に降りかかる悲劇を思えばそう考えずにはいられない。

背後10mに迫る恐怖

時刻はすでに日没直前であり皆疲労の色が濃かったため、鳥取大学テントへと向かう道中は危険の少ないルートが選択。
Aを先頭、Bを列の最後尾とし、パーティーは落ち着いて目的地へと向かっていた。
このまま鳥取大学のテントで一夜を過ごし翌朝無事に行程を終え、福岡に帰る・・・きっと皆が思い描いていたことだろう。

しかし「それ」は無情にもその一縷の願いを打ち砕きにやってきた。
パーティーが稜線から60~70m下ったところでDがふと後ろを振り返ると、あのヒグマが自分たちを追い掛け、その姿が最後尾Bの10mほど後方にまで迫っていたのだ。
5度目の襲撃だ。

驚愕した5人は一斉に走り出し、ハイマツの中を散り散りに逃げ始めた。
この時ヒグマはハイマツの中に逃げ込み身を隠していたBのすぐ脇をすり抜け、山を下っていく。
次にBの耳に飛び込んできたのは「ギャー」という悲鳴だった。
そして「チクショウ」という叫び声と共に、Eがハイマツの中から飛び出していきヒグマに追い立てられるように山を下って行った。

すぐにAとBは合流し、集合の声をかけるが、その呼び掛けに応じ集まったのはDのみ。
鳥取大学のテントがある方向から、Cの応答はあったものの集合することはなく、集合したのはA、B、Dのたった3人だけだった。

すでに辺りは暗くなっており、これ以上の行動はより一層の危険が伴う。
3人は安全と思われる岩場に身を寄せた。
彼らは不安を抱えながら夜闇の中で朝を待ち、その場にいない2人の無事を祈ることしか出来なかった。

霧の中に消えていく仲間

翌朝7月27日、3人はいなくなった仲間を探すため、8:00頃から行動を再開する。
不運にもこの日は濃霧により視界が悪い。

3人は足元と周囲の気配に警戒しながら、鳥取大学のテントのある方向かい、山を下って行った。
15分程歩くと、進行方向2~3mの場所にまたしてもヒグマが現れた。やはり自分たちの付近にいたのだ。

3人は瞬時に身を伏せ、いわゆる「死んだふり」の態勢をとる。
しかし、ヒグマはそんな子供騙しにはのらないとでも言うように唸り声をあげた。
その瞬間、Aが弾かれたように起き上がるとヒグマの巨体を押しのけて走り出した。
ヒグマは次の獲物をAに見定め、追いかけていく。1人と1頭の姿は深い霧の中、すぐに見えなくなってしまった。

残されたBとDはいつまたヒグマと遭遇するかもしれないという恐怖の中、とにかく懸命に山を下って13:00頃、砂防ダム工事現場へ到着する。
そこで事情を説明し車で中札内村駐在所に送り届けてもらい、ようやく安全な場所へと辿り着いた。
結局5人のパーティーのうちで生き残ったのはこの2人だけだった。

ヒグマ討伐

すでにパーティーが散り散りとなっていた7月27日15:30頃。
他大学からの通報を受けてヘリコプターが救助に向かったものの、上空の天候が悪かったため現場を確認することができなかった。

7月28日から、ハンターや山岳関係者、山中で出会った他の大学生、地元の九州から駆け付けた福岡大学待機メンバー、九州学生ワンダーフォーゲル連盟。
この面々が山に入り、学生たちの救助と共にヒグマの捜索を開始したのだった。

7月29日、罠として設置していた寄せ餌のそばにヒグマが現れた。
ハンターらは出現場所と付近に人間がいるにも関わらず、恐れることなく寄せ餌に構うその様子から、このヒグマが福岡大を襲った個体であると判断。
ハンターら標的に向けて一斉に発砲、ヒグマはようやく射殺された。
体重約130㎏、推定4才のメスのヒグマだった。

A・Eの遺体発見

ヒグマ討伐と同日の7月29日、枯沢のガレ場付近で2人が遺体が発見される。
最初にヒグマに襲われ、叫び声と共に駆け出して行った最年少メンバーEとリーダーのAの遺体だった。
Eは衣服を身に付けておらず、全身に数多の爪痕が残されており、頸動脈を切られていた。特に腹部が深く抉られて内臓が露出していた。
よほど執拗に嬲られたのか顔面の損傷は非常に激しく、もはや誰なのかわからないほどだったという。

Aも衣服を身に付けておらず、体中に傷跡が残され、頸動脈を切られていた。
顔の右半分は鋭い爪で削られるように損傷しており、遺体は人だったとは思えぬほど白くなっていた。
両遺体とも一見では誰か判別できず、遺体付近に残されていた血まみれのユニフォームや所持品からAとEと判断された。
それほどまでに2人の遺体の状況は凄惨を極めていたのだ。

Cの遺体発見

7月30日、1人の遺体が捜索中のハンターによって発見された。
5度目の襲撃の際、Aの点呼に対し返答があったものの遂に現れるこのなかったCの遺体であった。
AやE同様、衣服は身に付けておらず全身に爪痕がみられ顔面左半分は陥没。
腹部はえぐり取られて内臓が見えており、頸骨はヒグマの怪力により骨折させられていた。
先の2人と同じ様に遺体の状況は無残なものであり、仲間から離れ1人ヒグマと対峙した時の絶望と恐怖は想像するに余りある。

残されたメモ

加えてCの遺体のそばには彼が書いた手記が残されていた。
その手記によれば、彼は7月26日夕方に仲間らとはぐれて以降、少なくとも翌27日朝まで生存しており付近をうろつくヒグマの恐怖に1人怯えていたのだ。

孤独と恐怖の一夜

5度目のヒグマ襲撃によりパーティーが散り散りに逃げまとった際、Cは鳥取大学テントに向かって走っていた。
逃げる途中にヒグマに見つかったため、投石によって応戦したり走って逃げたりを繰り返しながら、ようやく鳥取大学のテントに辿り着く。
しかし、Cがテントに駆け込んだ時には鳥取大学はすでに現地を撤退した後だった。

すでに日は落ちていてあたりは暗くなっている上、付近にヒグマがいるような気はするものの正確な位置はわからない。
まさに袋のネズミのような状況だった。
もはやCにこれ以上の事を考える気力も体力も残されていなかった。
Cはテント内に残されていたシュラフに潜り込むと明日の朝には救助隊が来てくれることと仲間らの無事を祈って目を閉じた。
27日の4:00頃、Cは目覚めたものの、外にいるかもしれないヒグマに対する恐怖のせいでシュラフの中から出られずにいた。

ここからはC自身が書き残した手記によれば・・・

7:00、沢を下りようとするが、テントの5m上にクマがいて、テントから出られない。
3:00頃の手記の内容は文字が震え、判読不能な部分がある。
他のメンバーが下山したのか?という疑問とともに助けに来るのかと、不安と恐怖でたまらない状態であった事が書かれている。
そして、ガスが濃くなったと書かれ、判別不能な文字の後に手記は途切れている。

襲われた時刻ははっきりとはわからないものの、27日3:00以降、Cはヒグマに殺されたとみられる。
Cはなぜメモを残したのか?
書くことで少しでも平静を取り戻したかったのか?
少しでも自分の状況を書いて残しておきたいと考えたのか?
判読できなかった震える字体は、皮肉にも言葉として残すことすらできなかった、Cの味わった這い寄るような恐怖と不安を雄弁に語っているようだ。

ヒグマという生き物

福岡大を襲った北の覇者ヒグマ。そもそもヒグマとはどういった生き物なのであろうか?
ヒグマは日本では北海道にのみ生息する国内最大の陸上動物、メスの成獣であれば体長約140~180cm、体重は100~180kgほどだとされている。
パーティーを襲った推定4歳のメスのヒグマは体重約130kgと見られており、ヒグマ全体で考えればやや小ぶりの個体だったと言えるだろう。

1915年(大正4年)、7人もの人間が犠牲となった三毛別ヒグマ事件などを通して、ヒグマは人を見れば襲い掛かる危険な生物と思われる面もあるが、決して積極的に人間を襲うわけではない。本来ヒグマは警戒心が強く、慎重で賢い生き物だと言われている。

ヒグマにとって人間は自然界でめったに出会わない未知なる生き物であり、余程のことがない限り自ら人間に接触を図ることはない。
ではなぜ、執拗にヒグマの襲撃の受け、果てはメンバー3人もの人間が殺される結果となってしまったのだろうか?
それはヒグマの特性の1つである執着心によるものだと考えられる。

ヒグマの執着心

ヒグマは所有物に対する執着心がとても強い生き物だ。
自らのエサや所有物だと認識したものが奪われそうになると威嚇、エスカレートすると攻撃を仕掛けてきたりする。

今回の福岡大の行動を振り返ってみよう。
第1の襲来、最初にパーティーとヒグマが接触した際、ヒグマはしばし人間を観察した後、福岡大メンバーの持ち物であった「キスリング」を漁り食糧を奪っている。
そしてこのヒグマの行動に対し、パーティーは音を鳴らして威嚇しヒグマを追い払った上で荷物を取り返している。
その後もヒグマがたびたびキスリングを奪おうと襲来していることを鑑みても、第1の襲来の時点で「このキスリングは自分の獲物」とヒグマは認識していたと考えられる。

ヒグマと人間の間で、キスリングを奪い奪われの応酬をするうちに「自分の獲物を奪おうとする敵だ」とヒグマが学習してしまったのだろう。
ヒグマに襲われ絶命したメンバーたちは一様に激しく体を傷つけられていたものの、討伐されたヒグマの体内から人間のものと思われる肉片などは見つからなかったという。
この点からもこのヒグマは人肉を食べようとして人を襲ったわけではなく、あくまで自分の獲物を守ろうとしてメンバーを襲ったと考えられる。

ただここで1つ疑問が残る。
本来慎重で強い警戒心を持つヒグマが食糧を持っていたとはいえ、なぜ積極的に人間に接触していったのか?
推測として、福岡大に出会う前から、このヒグマは人間の持つ食糧の旨みを知っていたのではないだろうか?
なぜなら同じタイミングで入山していた、北海学園大学もヒグマに襲われてる。
この時、北海学園大学は荷物をほぼ現地に放棄し下山しており、結果この判断は正しかったことになる。

証拠はないが、福岡大と北海学園大学を襲ったヒグマは、接触した場所が近ことから同一個体である可能性は高い。
この置き去られた荷物を漁ったことで、ヒグマが人間の食糧の旨みを学んだ可能性もある。

関連性は不明だがこの事件の約1ヵ月前、カウイエクウチカウシ岳に単独で入山した、室蘭市の会社員が行方不明になっている。
滑落した形跡もなく、登山時の天候も悪くなかったことから、このヒグマとの間になんらかの接触があり行方知れずとなったのではないかとも疑われている。

もっと言ってしまえば、事件前に入山した数多の登山者の中に残飯の放置や餌付けなどを行ってしまった者がいて、ヒグマが人間の食糧を味を覚えたのかもしれない。
そんな小さなきっかけが今回のような惨事を招いたのだとすれば、悔やんでも悔やみきれない。

事件は防ぎうるものだったのか?

今回の事件によって、残念ながら死者が出てしまった原因をまとめてしまえば「ヒグマの執着性という特性を知らなかった人間がヒグマから荷物を取り返したこと」、「ヒグマに会ったにも関わらずすぐに撤退しなかったこと」と言えるだろう。
では、福岡大が実際にヒグマに遭遇した時、「荷物は放棄する」「即時撤退」の判断をする余地はあったのだろうか?

荷物を捨てるという判断

キスリングが奪われる度に何度も荷物を取り返してしまった。
この行為がヒグマを苛立たせ、彼らを敵とみなし排除しようとするきっかけを作ってしまったのだが、ヒグマの獲物への執着心という特性を知らなければ、ヒグマから荷物を取り返さないという判断に帰結できるか微妙なところだ。

福岡大は、今回の日高縦走計画を練る上で情報収集に余念がなかった。しかし、その情報収集の過程で今回の計画ルートにヒグマが出現する危険があるという情報は得られていない。また北海道に到着して登山計画書を営林署に提出した時も、特にヒグマに関する注意喚起は受けていない。

先に触れた本事件の前に室蘭の会社員が行方不明になった際に捜索隊が山に入った時も、ハンターは同行しておらず、地元関係者の間でもヒグマに対して特段の注意を払っていたようには見えない。つまり、福岡大は事前に本州にはいないヒグマについて知る機会を完全に失っていたことなる。

加えて本州に分布するツキノワグマについても独立行政法人 森林総合研究所の研究によれば、1987年に大分県で捕獲されて以降、確実な目撃情報もなく、捕獲されたこのツキノワグマですら九州地方以外から持ち込まれたクマである可能性が高いとしている。
九州産のツキノワグマが最後に確認された記録は1957年。10年以上経過し九州のツキノワグマは絶滅、またはそれに近いほどに個体数を減らしていたはずだ。
福岡大のメンバー達が九州の山々を登っていた期には、山でクマに注意するという前提がなかったのだろう。
このような状況で出現するという情報のないヒグマについて予備知識を入れておけというのは酷な話である気がする。

即時撤退という判断

福岡大は4度目の襲来の後の行動中にヒグマに襲われることになった。
「ヒグマに遭遇した時点ですぐに下山していればこんなことにならなかった」のではあるが、果たしてその判断を下すことは可能だったのだろうか。
撤退の判断が可能であったタイミングは大きく2つある。

①7月25日夜の2度目の襲来の後
②7月26日明け方の3度目の襲来の後

①の2度目の襲来は夜間の出来事だった。
福岡大が知っていたかは定かではないが、ヒグマは夜間であっても行動できる。
ヒグマと人間の接触段階初期だったため、荷物さえ放棄すれば4度目の襲来の後のように積極的に人を襲うことはなかったのかもしれないが、夜闇の山中での行動は滑落、道迷いなどの違った危険が伴う。初めて登る土地勘のない山で、夜間に即時撤退という判断は難しかっただろう。

では、②のタイミングはどうだろうか。
3度目の襲来の直後、リーダーAはハンター出動要請をするため2人を下山させ、3人をその場に留まらせるという判断をしている。
すでに日も登っており5人全員での下山も可能だった唯一のタイミングだ。
ヒグマに奪われた荷物が惜しかったのか、折角北海道まで来たのだから予定を完遂したいという強い思いがあったのか、Aが亡くなってしまっている以上、なぜこの判断に至ったのかはわからない。

だが、ここでもネックになるのはパーティーがヒグマの特性を知らなかったことだろう。
また、3人が待機していた場所では彼らと同じように、ヒグマも付近に留まっていた。メンバー全員で撤退したとしてヒグマが追ってこないという確証もない。
後から考えてみれば②のタイミングで撤退することが最善策であったように思えるが、それですら逃げ切れることが確実な手ではなかった。

この事件から思うこと

物心両面でどんなに準備をして山に臨んだのとしても、決して万全ということはない。

不測の事態、予期せぬ事態はいくらでも起こり得るということをこの事件の犠牲者はその身をもって伝えているようだ。
山に入る際、そこは人間の常識がまかり通らない場所に向かうのだということを私達は覚悟して臨まなければならない。

※画像はイメージです。

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