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祖母が言っていた地元への疎開?調べてみたら意外なことが発覚!

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戦争を体験した人は、今では高齢になって、あまり話を聞くことができなくなりましたね。
祖母が前話していた話をふと思い出しました。

「ばあちゃんの家の近くには、疎開してきた子どもたちがたくさんいたんだよ」

どんな子どもたちが疎開してきたのかな。
そう思った私は、祖母が暮らしている、福島県二本松市について調べてみました。
そうすると、意外なことが判明!

目次

福島県二本松市とは

福島県は、3つの地域にわけられます。
海のある、そして震災の影響を受け復興がすすむ「浜通り」、行政、交通の中心として栄えている「中通り」、かつて戊辰戦争の戦場となり歴史のある「会津地方」の3つです。

二本松市があるのは、「中通り」。
県庁所在地の福島市や、交通の要所、郡山市の間にある市です。

二本松市も歴史があって、霞ヶ城や、戊辰戦争で若くして亡くなった「少年隊」が有名です。
これから紹介する二本松市の小浜にもお城があり、伊達政宗が滞在していたことでも知られています。

一言でいうと、「ド田舎」。
田んぼと畑、森、震災前は山菜取りもいっぱいしたなあ・・・と思い出しました。
生れてはじめて間近でイノシシを見たのも、この小浜。
小浜の鳥居町、現在でも旅館や小さな商店、旅館を思わせる古い建物が並んでいます。

食料に困っていなかったみたいだし、疎開するならばっちりの場所ですね。

疎開してきたのは・・・

疎開するならばっちり、誰しもそう思ったのかもしれません。
東京の中野区北部の児童たちは、福島県へ疎開してきました。
場所はまちまち、会津の方だったり、中通り南部だったり。

そんな中二本松市小浜に疎開してきたのは、東京都の国民学校の6年生191人。
多いですね、今の小浜からは、こんなに子どもを受け入れられる雰囲気がしない・・・。
旅館に受け入れられていたようです。

小浜大火

昭和20年1月15日午前1時、小浜鳥居町の東陽館から出火。
祖母もこんな話してなかった…でも祖母の家からだいぶ近いぞ!

この火事で、鳥居町のほとんどが消失。
ですが、蔵のおかげで延焼が免れたのだとか。
確かに蔵は多いけど、そんな働きをしてくれていたとは…。
ちなみに祖母の家の蔵は、200年はたっているのかな…。

蔵って丈夫ですね、震災の揺れでひびは入りましたけど、まだまだ現役です。
この火事で、疎開してきていた子どもたちは、現在二本松市の油井に避難することになりました。
ここで終戦を迎えたのでしょうか。

そのころの小浜

戦時中の小浜は、まるで福島県にある「大内宿」のようだったと言われています。
茅葺屋根が並んで、それが延焼する理由となったのでしょう。
火災が起きた翌日に出征する若者もいたのだとか。

小浜には、小さな川が流れています。
その小さな川と、近隣の村の協力で、お米を守ることができたのだとか。
疎開してきていた子どもたちも、教師が子どもを抱えて建物から飛び降りたり、体を張った行動で、みな無事だったようです。
現在、疎開してきたのちの大和小は閉校、統合されて「美鳩小学校」となったようです。

祖母が嫁いだばっかりの時

確か終戦を迎えたとき祖母は19歳、嫁いだのは18歳のはずだから、祖母が近くの実家から嫁いできたばかりの頃ですね。
祖母の家から近くの鳥居町だから、子どもたちとも接点はあっただろうし、火事も知っていたのだと思います。

疎開してきた子どもたちの話はしたのに、火事の話はしなかった。
知り合いが亡くなったりしたのでしょうか、でも死亡者はネットでは見つけられませんでした。
今度帰ったら、もっと詳しい話を聞こう、そう思いました。

貴重な戦争体験を

特攻とか、出征した兵士とか、戦争中の痛ましいこと、そういったことは、よく耳にするかもしれません。
でも、案外自分の祖母や祖父、自分の実家など、そういった人たちの暮らしぶりを聞くことは、あんまりないんじゃないか、と思います。
きっと、戦時中だけど平和でなごやかな暮らしがあったのでしょう。
自分のルーツを知る機会にもなりますね。

戦争を生で体験した方が少なくなる中、当時生きていた人の話を聞くことはとっても貴重です。
みなさんもぜひ、自分を育ててくれた家族や親戚の当時の生活を聞いてみてはいかがでしょうか。
案外、知らなかった事実を知ることができるかもしれませんよ!

※画像はイメージです。

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