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不死身の分隊長「船坂弘軍曹」

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現在の防衛省の防衛研究所戦史部の前身にあたる防衛研修所戦史室によって、太平洋戦争の敗戦から21年後の1966年より14年の歳月を費やして編纂された全102巻からなる「戦史叢書」と言う歴史書がある。この「戦史叢書」はオフィシャルな戦史と言う性質から基本的には個人の武勇伝には言及されていないのだが、その中でほぼ唯一の例外として記録されているのが大日本帝国陸軍に在籍した船坂弘軍曹。

太平洋戦争中には「不死身の分隊長」の異名で知られた船坂弘軍曹は、その類い稀な軍歴から日本は元より、敵であるアメリカ軍からも畏怖の念を示された正に生きる伝説と呼ぶに相応しい人物だ。
そんな船坂弘軍曹の壮絶な軍人としての生き様や、戦後の日本においても大きな足跡を残した生涯を微力ながら紹介していきたいと思う。

目次

船坂弘軍曹の生い立ちと陸軍入隊

船坂弘軍曹は、現在の北関東・栃木市西方町である上都賀郡西方村にて1920年10月に農家の三男として生を受け、幼少の頃より活発で1939年には満蒙学校専門部に入学、そこで3年間就学する。
その後太平洋戦争の開戦年となる1941年3月に大日本帝国陸軍の宇都宮第36部隊へ入隊、満洲の斉斉哈爾(チチハル)第219部隊へ配属となり、これは宇都宮歩兵第59連隊の中核を担う部隊だった。

船坂弘軍曹は来るべきソ連軍の侵攻に備えて軍務に勤しみ、剣道・銃剣道共に有段者であったが、殊に銃剣道に定評があると同時に、擲弾筒分隊長を任されながら射撃にも長じており中隊屈指の技量だと認められていた。
満州で待機を強いられていた船坂弘軍曹の宇都宮歩兵第59連隊だったが、戦局が悪化した1944年4月に遂に南方のパラオ諸島・アンガウル島に投入され、その地で稀有な武名を馳せる事となる。

パラオ諸島・アンガウル島での激戦

パラオ諸島・アンガウル島に到着した船坂弘軍曹は、占領・制圧を目指して上陸して来るアメリカ陸軍第81歩兵師団と激戦を展開、アンガウルの戦いと呼称されるこの戦いで擲弾筒分隊長として多くの敵兵を斃す。
擲弾筒や臼砲を用いて船坂弘軍曹は善戦するも、数に勝るアメリカ陸軍第81歩兵師団に押されアンガウル島の内陸部に逃れ、その後はゲリラ戦的な要撃戦術で尚も激しい戦闘を繰り広げた。

船坂弘軍曹は程なくして左足に重傷を負い、友軍の軍医にその傷の深さから手当さえ断念されたものの、日章旗を使って自ら止血を施すと、自力で自陣に生還を果たし驚異的な治癒力を発揮して以後も戦闘を継続する。
この驚異的な治癒力について、船坂弘軍曹自身は生まれついての体質的なものであったと述懐しており、以後も戦場の銃火器としては心もとない拳銃のみでアメリカ兵を斃し、短機関銃を奪い白兵戦を行うなど鬼神の働きを見せた。
しかし所詮は多勢に無勢、満身創痍の船坂弘軍曹は自らの体に6発の手榴弾を結わえ、拳銃1丁のみでアメリカ軍司令部への自爆攻撃を敢行、寸でのところでアメリカ兵の銃弾で撃ち斃されてしまう。

アメリカ軍の軍医ですらこの船坂弘軍曹の様子を見て手遅れだと思いつつ野戦病院に担ぎ込んだが、船坂弘軍曹は意識を取り戻すと瀕死の体で尚も抵抗を続け、アメリカ兵の間でに畏怖の念が広がったと言う。

捕われても抵抗を続けた船坂弘軍曹

アンガウル島での激戦によって友軍だけでなく敵であるアメリカ軍にもその存在を広く知られる事となった船坂弘軍曹だが、捕われた後には同じパラオ諸島のペリリュー等の捕虜収容所へと移送・収監された。
因みにこの時点でも船坂弘軍曹は自身の素性を伏せる意味でフクダの偽名を称しており、それが故にアメリカ軍関係者の間ではその偽名にて要注意人物だと目されていたが、その警戒は正しかった。

ペリリュー等の収容所に移送された船坂弘軍曹は、僅か2日後に重傷の身にも関わらず逃亡を敢行、アメリカ軍の飛行場の破壊を企てるがこれには失敗、以後グアム、ハワイ、アメリカ本国へと収容所を移される。
1946年迄収容所に収監された船坂弘軍曹だったが、同年ようやく日本への帰還を許されるも、実家にはアンガウル島での激戦で戦死したと知らされており、自らの墓を目撃する事から戦後の人生を歩み出した。

戦後の船坂弘軍曹

戦後の船坂弘軍曹は、現在も東京都渋谷区宇田川町で営業されている大盛堂書店の前身である店舗を昭和21年頃に開業したと言われ、同地は自身の養父であった人物が移動式の屋台形式で書店を始めた場所だとされる。

「不死身の分隊長」の異名を持ち、壮絶なアンガウルの戦いを生き抜いた船坂弘軍曹のイメージからは書店開業と言うのは以外かも知れないが、期せずして捕虜としてアメリカ本土を見聞した経験が影響したとも言われている。
船坂弘軍曹は日本の戦後復興の為には知識の取得が必要不可欠と判断したとも伝えられており、現在も続く大盛堂書店の地下には2000年頃まではミリタリーショップも存在していたようで僅かに軍との関連も感じさるものだった。

尚、船坂弘軍曹は剣道を通じて、かの文豪・三島由紀夫とも親交があり、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて1970年11月に三島由紀夫が籠城事件を起こし、最期に割腹に及んだ日本刀「関の孫六」は船坂弘軍曹からの贈答品だった。
船坂弘軍曹は戦後の人生を書店の経営と並行してアンガウル島への慰霊碑建立に捧げ、多数の戦記の著述で得た印税を投じて複数の島々でそれを実現、何とこの21世紀の2006年2月まで生き、85歳で天寿を全うした。

船坂弘軍曹が現在に残したと思しき影響

戦闘機のパイロットや戦車乗り達が戦場で会敵して挙げた戦果は、何機撃墜、何輌撃破と言ったような定量化がある種行い易い事もあり、今日に語り伝えられる事績として取り上げられる事が多いと言える。
しかし歩兵部隊の兵として敵味方問わず砲弾、銃弾が飛び交う戦場にあっては、誰が成し得た戦果であるのかが極めて不明瞭にも関わらず、友軍・敵軍ともに認める戦闘能力を発揮した船坂弘軍曹は傑出している。

その源となったのは自身も語っていたように驚異的な治癒力な治癒力と精神力だったと思えるが、その「不死身の分隊長」の異名はある人気漫画のキャラクターにも影響を与えたと思われる。
それは「ゴールデンカムイ」の主人公の一人・杉元佐一だが、作者は自身の同姓同名の祖父をモデルと述べつつ、人物像はその限りではないとされている事からも、彼のキャラクター設定のモチーフになっているのは間違いないだろう。

featured image:The Japanese book『Senshi Sōshō』, Public domain, via Wikimedia Commons

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