日本海軍の戦艦「扶桑」と「山城」
太平洋戦争において多くの時期を練習戦艦として過ごし、レイテ沖での悲劇的な最期を迎える。
そんな「扶桑」と「山城」はどんな戦艦だったのでしょうか。
日本最初のド級戦艦
第1次世界大戦でイギリスは「ドレッドノート」級戦艦を建造し、ド級戦艦の時代が始まった。
日本海軍はド級戦艦が無い為に新たに作る必要があった。
まず、同盟関係にあったイギリスの造船会社ヴィッカース社での建造が検討された。
日本とヴィッカース社は戦艦「金剛」を建造した関係がある。
しかし、イギリス政府が日本へのド級戦艦のような最新兵器の技術提供を禁じた事でヴィッカース社での建造は取りやめになった。
日本は国産で最初のド級戦艦を作る事になった。
その最初のド級戦艦は「扶桑」型で、同型艦に「山城」がある。
1915年(大正4年)に呉海軍工廠で「扶桑」が、1917年(大正6年)に横須賀海軍工廠で「山城」が竣工する。
戦艦「扶桑」型の特徴
日本最初のド級戦艦となった「扶桑」型
主砲は連装の36センチ主砲が6基12門に加えて副砲が単装砲16門と火力は強力でした。
しかし、船体に関しては問題が生じていた。
防御力強化の改装を行い側面の防御力は高められたものの、水平に張られる装甲版は薄いものとなっていた。
これは船体の重量増加を抑える為だった。
重量増加の要因として、主砲の射撃を機械を使って指揮する射撃指揮装置を載せるにあたり、主砲発射の爆風を避ける必要が生じた。この爆風避けが「扶桑」型の特徴となる高い塔のような艦橋になったのだ。
速度や航走性に難点があった。
最高速力は22ノットとあるものの、実際は21ノットであったとされる。また高速で航行中に舵を切る時に10ノットのもの速度低下が起きたり針路の安定さを示す保針性に難があった。
これはド級戦艦を最初に作ったが故の未熟さであった。その「扶桑」型での経験が次の「伊勢」型で生かさられる事となる。
「扶桑」と「山城」の実戦
大正時代に竣工した「扶桑」と「山城」の出撃は昭和の太平洋戦争になってからです。
とはいえ、練習戦艦として当面はあったものの1943年(昭和18年)には第一戦に復帰し、機銃の増設などが行われた。
1944年(昭和19年)6月の渾作戦で「扶桑」と「山城」はビアク島への救援に出撃するものの、空襲に遭い艦隊は撤収する。
そして10月に起きるレイテ沖海戦
「扶桑」と「山城」は栗田艦隊の別働隊である西村艦隊として出撃する。
スル海で空襲を受け、夜のスリガオ海峡で米艦隊との西村艦隊は遭遇する。
海戦は米駆逐艦部隊との交戦から始まった。
駆逐艦からの雷撃で「扶桑」が爆発を起こして轟沈、乗員全てが戦死
「山城」も魚雷が命中するものの、2基の主砲弾薬庫に注水して爆沈を防いだ。しかし、今度は6隻の米戦艦が海峡に現れた。米戦艦は「山城」へ容赦無く砲撃を撃ち込み、駆逐艦も更に雷撃を放ち「山城」は火災を発生させ爆沈した。「山城」の生存者は10人でした。
「扶桑」と「山城」は最初の国産ド級戦艦と言う存在意義があるものの、悲劇で幕を閉じてしまったのです。
featured image:Unknown, assumed official photographer as this a high-quality photo unlikely to be taken by an amateur and the IJN severely restricted professional photography of its ships after World War I., Public domain, via Wikimedia Commons
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