現在はともかく、第二次大戦時の兵器の進化(特に航空機や戦車)は欧州戦線では著しく、旧式化したと言っても使用せざるを得ないこともあった様子です。そのような旧式兵器の悲哀みたいなものを考えていきたいと思います。
偵察戦車としても生き残れなかったII号戦車
第二次大戦時、本来は主力戦車(III号戦車・IV号戦車)までの「つなぎ」として使用されるはずだったII号戦車も、III号・IV号の生産が間に合わなかったこともあり、対ポーランド戦や対フランス戦に投入されたりしています。
そこで、装甲の分厚い英軍マチルダ戦車に遭遇し、さすがに20ミリ機関砲でも苦戦するようになります。そして、独軍側も、機関砲に使用する徹甲弾を改善したり、前面の形状を見直したりして、II号戦車を司令部などでの「指揮」もしくは偵察部隊での「強行偵察」に使用することで、戦力として活用しようとしたのですが。
東部戦線では
東部戦線ではソ連軍の軽戦車にはII号戦車でも太刀打ち出来たモノの、T-34(T-34-76)やKV-1といった主力戦車には力不足であることが明白となります。また、アフリカ戦線でも、前述の英軍マチルダ戦車や6ポンド砲(クルセーダー巡航戦車にも搭載された)に勝てず、独ソ戦開始の1941年から1942年までの1年間に500両以上のII号戦車が失われることになったのだった。
これを見て、II号戦車の改良を考えていた独軍も、実際の戦場でのII号戦車の様子を見て、改良計画の破棄及びII号戦車の生産中止を決定したのは当然の流れであったと思います。
だが、しかし
装甲師団の定数から外れたII号戦車ではあったが、定数外の兵器として戦争後半まで現場の部隊で運用が続けられたという、旧式になっても引退させてもらえない兵器の悲哀、そのようなものを感じたりしたのでした。
実際、1942年頃からは、車台を生かして自走砲(マーダー2)として生産(前線から戻ってきたII号戦車の改造も含まれたであろう)された方が、戦闘に勝つという意味では良かったのかもしれないとか思ったりもした。
装甲には期待出来ない自走砲故、生存率は望むべくもないということを考えると、改造(独本国送り)をされずに現地部隊で何らかの運用をされていた方が、II号戦車自身にとっては幸せだったのかな!?とも考えたりもしたのでした。
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