聖女ジャンヌ・ダルクと共に戦い英雄として称えられた男ジル・ド・レ。
金に困って始めた錬金術から黒魔術に手を染め、大勢の少年たちを自らのサディスティックな性欲を満たすため、なぶり殺しにした史上まれにみる残酷な虐殺者と言われている。
・・・・・・それは本当だろうか。
ジル・ド・レとは?
ジル・ド・レが手にかけた少年の数は、千人以上ともいわれる。
これの根拠とされるのが、ジル・ド・レの領地周辺で多発していた子供の失踪である。
特に失踪が多かったとされる1438年に、頻繁に凶行を繰り返していたのではないかといわれている。
手の届く範囲で、失踪した少年=被害者だと考えると千人を超えるという話も頷ける。
まずここで触れたいのが、当時のヨーロッパの気候である。
中世ヨーロッパは気候が不安定になり、慢性的ともいえる不作に襲われていた。
1438年もフランス全土で、飢饉があったことが記録に残っている。
飢饉の際、口減らしとして真っ先に犠牲になるのは子供だった。
1438年、飢饉に見舞われたことが失踪事件の数に関わりがないといえるだろうか。
逆に言えば、飢饉がジル・ド・レによる虐殺を助長したという見方もできる。
親の保護下にある子供を攫ってくるよりは、捨て子を見つけて連れてくる方がずっと簡単だ。
被害者の中には、貧困に耐えかねた親に売られてきた子供もあったかもしれない。
告発され、調査が入った際、ジル・ド・レの居城には少年たちの遺体や骨がいくつも見つかったという。
裁判において、快楽のために少年たちを殺害したことを認めている。
被害について
領地をめぐるいざこざから、ジル・ド・レが聖職者を捕らえたことがきっかけとなり事件が発覚するのだが、この時を待っていた人物がいたのではないか?
ジル・ド・レはかつての英雄であったが、心酔していたジャンヌ・ダルクの死後は目立った活躍もないまま散財を繰り返し、身内にとっては厄介な存在になっていた。
また、宮廷では所属していた派閥の大貴族が失脚してから立場を失くし、敵対する派閥の貴族から目をつけられていたようだ。
ジル・ド・レを裁いた司祭は、敵対派閥の息がかかった人物だった。
事実無根だった・・・とはいえない。
だが、裁判の証言にあるような異常な残虐性は、彼を悪漢に仕立て上げるための捏造だったのではないか?
裁判で拷問も辞さない時代に、自白を鵜呑みにしてよいのだろうか?
ジル・ド・レはジャンヌ・ダルクの死によって、心神喪失となったともいわれている。
貴族社会の中で狡猾に生きてきたジル・ド・レにとって、ただまっすぐに神を信じるジャンヌ・ダルクは心の拠り所だったのかもしれない。
心酔する聖女が異端審問にかけられた挙句、火あぶりにされたことに絶望したのだろう。
ジャンヌ・ダルクはのちに聖人として認められた。
そんなことを知る由もないジル・ド・レは救いを失ったまま、虐殺者として語り継がれている。
eyecatch source:Éloi Firmin Féron, Public domain, via Wikimedia Commons
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