1942年(昭和17年)8月から始まったガダルカナル島の攻防戦
この戦いが太平洋戦争の流れを変える事になりますが、攻防戦が始まった時はどう日本軍は動いていたのでしょうか?
米軍ガダルカナル上陸
1942年(昭和17年)8月7日に米軍は「ウォッチタワー作戦」を開始し、ソロモン諸島のガダルカナル島に上陸します。
上陸した戦力はバンデクリフト少将率いる第1海兵師団1万9000人
当時のガダルカナル島は飛行場を建設する日本海軍の設営隊と僅かな警備隊しか無く、飛行場から内陸へ退却し、抵抗を続けて壊滅してしまいます。
米軍は飛行場を占領しヘンダーソン飛行場と命名して整備し、8月20日にはF4Fワイルドキャット艦上戦闘機19機とSBDドーントレス艦上爆撃機12機の海兵隊航空隊が展開します。
上陸から2週間ほどで米軍はガダルカナル島を拠点として固めていました。
また上陸作戦を支援する艦隊として、フレッチャー中将の空母「サラトガ」と「エンタープライズ」・「ワスプ」からなる機動部隊、ターナー少将の重巡洋艦6隻・軽巡洋艦2隻・駆逐艦8隻からなる輸送船団護衛の艦隊もありました。
日本軍の状況
米軍がガダルカナルに上陸した時に即座に動けたのはニューブリテン島のラバウルにある海軍部隊だけでした。
まずはラバウル海軍航空隊
零戦39機(21型が24機・32型が15機)一式陸上攻撃機32機・九九式艦上爆撃機16機・九八式陸上偵察機2機・飛行艇4機
この戦力で米軍上陸当日からガダルカナルへ向けて出撃します。
またラバウルを拠点する第8艦隊がありました。
重巡洋艦「鳥海」・「青葉」・「古鷹」・「衣笠」・「加古」、軽巡洋艦「天龍」・「夕張」、駆逐艦「夕凪」の合わせて8隻が上陸当日の午後にガダルカナルへ出撃します。
ガダルカナルへ上陸して奪還する陸軍部隊として一木清直大佐率いる一木支隊2000人がグアムから、川口清建少将の川口支隊も移動を開始します。
こうして日本軍はすぐに反撃の動きをしたものの、陸海軍の上層部はガダルカナルの米軍は1個連隊ぐらいで撤収するだろうと言う考えでした。
また、この時に日本軍は東部ニューギアニアでポートモレスビー攻略戦を実行中でしたが、次第にガダルカナルが優先されてしまいます。
緒戦で日本軍は勝てたか?
8月8日の夜に日本軍の第8艦隊が連合国軍の重巡洋艦4隻を撃沈する勝利をしますが、輸送船団を攻撃せずに引き上げます。これは輸送船団の攻撃をすれば、夜が明ける帰路で米空母からの空襲を受ける危険があった為です。
ところがフレッチャーはラバウル航空隊との空戦で空母の搭載機を消耗させまいと退却していました。日本軍はその動きを察知する事は出来ず、空母の脅威を前提にしなければいけなかった。
それでも8月9日からガダルカナルに米軍機が展開する8月20日までは日本軍が航空優勢を持つ期間が生じていました。
もしもこの期間に日本軍が戦艦や空母に師団を投入する大規模な反撃を行えば奪還できたかもしれません。しかし、敵は少なく撤退すると思い込んでいた日本軍上層部の判断は好機を生かせなかったのです。
featured image:U.S. Marine Corps, Public domain, via Wikimedia Commons
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