1991年1月に開戦した湾岸戦争は2月に地上戦に進みました。
73イースティングの戦い以降も、アメリカ第7軍団は共和国防衛隊との戦いを続けます。
多国籍軍は共和国防衛隊の撃破を狙いますが・・・
第7軍団VS共和国防衛隊
1991年2月24日から始まった湾岸戦争の地上戦
イラク南部のサウジアラビアとの国境に配備された、正規軍のイラク陸軍の部隊は多国籍軍が前線を突破すると降伏する将兵が多く出た。
その一方でイラクのエリート軍団と言える共和国防衛隊は後方に控えて、反撃に備えていました。
しかし、73イースティングの戦いで多国籍軍のアメリカ第2機甲騎兵連隊がイラク共和国防衛隊タワルカナ師団に勝利します。
多国籍軍を総指揮するシュワルツコフ大将は第7軍団に、共和国防衛隊への攻撃を続けるように命じた事もあり、多国籍軍の戦車軍団であるアメリカ第7軍団と共和国防衛隊の戦いが続きます。
第7軍団のアメリカ第1歩兵師団がタワルカナ師団と、アメリカ第1機甲師団と第3機甲師団が共和国防衛隊のメディナ機甲師団とで24日夜から25日の未明にかけて夜間戦闘が繰り広げられました。
停戦と共和国防衛隊撤収
多国籍軍が「メディナ・リッチの戦い」と称したこの戦闘でタワルカナ師団とメディナ師団は多くの装甲車輌を失い、戦闘能力を大きく低下させました。
多国籍軍はハンムラビ師団も発見して航空攻撃を差し向けますが、大きな打撃は与えれませんでした。
第7軍団の地上部隊による攻撃を仕掛けようとしますが、2月28日朝の停戦を迎えて多国籍軍はハンムラビ師団を撃破する機会を逃しました。
共和国防衛隊は2個師団が撃破されましたが、イラク南部に展開した5個師団の内で3個師団は撤収に成功します。
しかしそれは、クウェートからイラクの有力な戦力を遠ざける事に多国籍軍が成功したと言えます。
フセインの軍事力を完全に破壊は出来ませんでしたが、当初の目標であるクウェート解放は成し遂げられたのです。
共和国防衛隊は弱かったのか?
1988年に終わったイラン・イラク戦争の損耗やフセインの独裁政権による将校の粛清による影響が少ない共和国防衛隊は統率は維持されていましたが、実戦では性能が高い暗視装置を持つ米軍戦車に負けました。
イラクに輸出されたT-72が本来の性能よりも落とした車輌であったせいもあります。
逆に性能差を自覚してT-72を陣地に埋める待ち伏せ戦術で共和国防衛隊は対抗しました。
共和国防衛隊にとっては戦車部隊や機械化部隊同士の戦いになり、使える技術力の差の勝負になってしまったのが不幸だったのかもしれません。
※画像はイメージで時代考証など問わないでください。
eyecatch source:Defence-ImageryによるPixabayからの画像
思った事を何でも!ネガティブOK!