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隠された大要塞「函館要塞」

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日本各地に散らばる要塞に興味があって書いてみた。
北海道の要塞は五稜郭が有名だが、今回はそれよりマイナーな要塞を紹介したい。

『函館要塞』と言う単語をみて、聞いたことがない、と思った貴方の反応は正常だ。なぜなら、この要塞の名は歴史の教科書にほぼほぼ出てこないのだ。しかし、ロシアの脅威に怯える当時の日本にとって、この要塞は非常に重要な役割を持っていた。

目次

函館要塞の経緯

時は1895年、日清戦争の終戦時まで遡る。大国の清に勝利をおさめた日本は、下関条約によって遼東半島を手に入れた。
しかし、それに待ったをかけた国がロシアであった。ロシアにとって極東進出のためには「不凍港」が必要であり、そのために、日本に圧力をかけたのだ。皆さんの歴史の教科書では、三国干渉と言われる、この事件をきっかけに日露の国交は加速度的に悪化していった。
そして軍部は来たるロシアとの軍事衝突を想定して要塞を建設していったのである。1902年[明治35]に作られた、この函館要塞もその一つだった。

当時の日本の要塞はたいてい、軍港を敵から守るために建てられた。しかし、函館要塞の場合は少し事情が異なっていた。当時では数少ない、商業港である函館港を防衛するための要塞だったのだ。
 なぜ、たかが、一つの商業港を守るためだけに必死だったのかというと、函館港はその時の日本の重要な補給路だったためだ。どういうことかと言うと、この港が北海道と本州を繋げる唯一の港だったためである。そこをロシア軍に占領されるような事があれが北海道が分断されて、本州も危うい状態になる。だから当時の軍も必死に函館港を守ろうとしたのだ。

実戦では通用しなかった?

函館要塞は実戦では通用しなかった。ロシアの艦隊、ウラジオストク艦隊が1904年に函館要塞の警備をかいくぐり、津軽海峡を通過していったのだ。その間、ロシアの艦隊を止められない北海道が一時的に孤立化する事態となってしまう。
この事実を重く受けた軍部は函館要塞の機能を、津軽要塞に移籍した。
 
この函館要塞は長らく立ち入り禁止区域になっていた。しかし、太平洋戦争に日本が敗戦した後に開放された。現在では北海道遺産に登録されており、今現在でもその雄姿を目にする事ができる。

興味を持ったのであれば

現在でも、当時そのままの状態で保全されており、北海道遺産にも指定されている函館要塞。 
実戦では役に立たなかったが、この失敗が海峡を守る要塞の建設に繋がり、今では観光地になっていることを考えると、この要塞は決して無駄ではなかったのだ。

函館山のハイキングコースにて、この要塞を見学できるので、気になった方は参加してみてほしい。

※画像はイメージです。

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