MENU

服部半蔵は忍者ではなかった?

当サイトは「Googleアドセンス」や「アフィリエイトプログラム」に参加しており広告表示を含んでいます。

戦国武将の一人として服部正成という人物がいますが、それほど知られていません。しかし、服部半蔵という名前なら聞いたことがある人は多いでしょう。
服部正成と服部半蔵は関係していて、服部正成の生まれに関与しています。

目次

忍者を纏めるリーダー

服部半蔵はいろいろな映画やドラマに登場し、忍者として描かれています。服部半蔵という名前は個人の名前というより、代々忍者を纏めるリーダーの呼称です。服部半蔵は戦国~江戸時代まで徳川氏の下で活躍し、服部家の歴代当主を意味し、歌舞伎の世界のように当主が代々「半蔵」という名前を受け継ぐシステムなのです。

古来から伊賀流忍者のトップだった一族が祖先になりますが、忍者であったのは初代服部保長だけで、それ以降忍者ではありません。服部正成自身、忍者ではなく戦国武将として活躍しました。
服部家の家督を継いで徳川家康の下、さまざまな戦功を残しています。

徳川家を守り抜く存在

三方ヶ原の戦いにおいて武田軍と徳川軍は戦い、徳川軍は織田軍と連合していましたが、徳川軍は追い詰められます。徳川軍は大敗しましたが、その中でも服部正成は武功を立てていたので、徳川家康は伊賀衆を彼に預けることになりました。

服部正成は忍者のリーダーになり本能寺の変でも活躍し、徳川家康は織田信長から招待されており、しばらく畿内各地を見物していました。
徳川家康は泉州の堺で事件を知り、その時のお供は服部正成や本多忠勝・穴山梅雪ら30人ほど。人数が少な過ぎたので三河に急いで帰ることになりましたが、最短ルートで行くと途中農民や地侍などによる襲撃のリスクがありました。服部正成は商人の茶屋四郎次郎清延と一緒に、伊賀や甲賀の土豪と交渉することになり、彼らに警護してもらうよう手配します。

伊賀忍者だけが知っているルートを使って、徳川家康は無事に三河に帰り、その後伊賀衆は江戸城西門の警護を担当することになります。スパイとして派遣される忍者の出入り口も西門が利用されるケースが多かったそうです。
このことから半蔵門と呼ばれるようになり、現在も天皇陛下が皇室へ出入りする際に利用されていることで有名です。地下鉄の半蔵門線も半蔵門が由来になっており、服部半蔵の名前は広く知られています。

最後に

戦国時代において忍者は敵の城に潜入したり、敵の領地でいろいろな噂を広めたと言われて、多くの忍者がいたはずですが、その身分は低く名前が残っている者はほとんどいません。服部半蔵のようなリーダー格でないと名前は残らないのでしょう。

服部正成のように伊賀や甲賀などの忍者に顔が効く戦国武将だったからこそ、伊賀越えができたと言われています。徳川家康が全国統一できたのも、服部正成のような優秀な家臣に恵まれていたからかもしれません。

※画像はイメージです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

どんな事でも感想を書いて!ネガティブも可!

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

目次