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信長は兵農分離を行ったのか?

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兵農分離は天才信長に相応しい工夫なのです。

目次

兵農分離の芽生え

父 信秀の急死により織田家家督を18歳で継いだ信長は、温厚で実直な弟 信行を推す勢力が家臣団の中に少なからず存在する、非常に不安定な状況下にあった。

そんな中で忠実で信頼できる家臣を欲していた信長は、彼の供回りにその人材を見出したのではないか。
彼らは信長が「うつけ殿」と呼ばれる原因となった、尋常ではない風体で奇行を繰り返す信長の共をした、悪童仲間のような連中である。
信長はこの供回りたちを指揮官とした自分の意のままになる兵団を整備するために、銭と米柴を支給して多くの兵を雇い入れたのではないだろうか。

この供回り衆は、信長が力が大きくなるにつれ、信長独自の強力な親衛隊、小姓衆・馬廻り衆に成長する。
その過程で、農民兵が核となる従来の家臣団に比べ、農作業に時間と労力を割く必要のない軍事専従兵団の有利さに、
信長が着目した可能性がある。

楽市楽座と関所廃止

信長に反意を持つ家臣や親戚を平らげながら尾張国を統一する中で、信長は軍事専従兵団の使い勝手の良さを益々を認識したことだろう。

信長の織田家は祖父の代から、海陸の交通拠点や門前町など商業地域といった経済的要衝を勢力下に置いていた。
これら地域を引き継いで経済的に豊かだった信長は、多くの軍事専従兵を養うことが可能だった。

そしてこれをさらに増強するためにはより強大な経済力が必要になった。
国の経済力を伸ばすにはどうすれば良いかを考えた時、商業の重要性とその仕組みを熟知していた信長が、楽市楽座と関所廃止に思い至ったのは全く当然の帰結であろう。

居城の移動

独自の軍事専従兵団の有利さを知った信長は、今川・斎藤・武田など周囲の強敵がたまたま出現した有能な統率者の下に組織されただけの、それぞれの領地を基盤にした国人衆の寄り合い所帯に過ぎないところに、その弱点を見出していたに違いない。

尾張半国の弱小大名に過ぎなかった信長は、尾張統一の過程で徐々に軍事専従兵の比率を上げていき、対外政策としてさらにこれを拡充していったのではなないか。

信長はその居城を那古野・清州・小牧山・岐阜・安土と5回も移している。
その他の大大名を見ると、毛利・郡山城、武田・躑躅ヶ崎館、北条・小田原城、長宗我部・岡豊城(おこう)と、本拠地を動かしていない。
領地に根付く農民兵を基盤とする軍団は、簡単には根拠地を移動できないからだと考えられる。
即ち信長の頻繁な居城移転は、兵農分離によって可能だったと推測できる。

信長は兵農分離を行ったのか?

兵農分離がほぼ完了するのは豊臣秀吉の政権下であるが、信長がこれを行ったという証拠はない。

ただ「一所懸命」の言葉の如く、領地の田畑と強く結びついてきた武士社会において、そう簡単に兵農分離が進むはずもなく、それが何十年単位の長期的な社会変革であった事は確実である。
つまり信長が兵農分離を徐々に進めていたからこそ、秀吉の時代にそれが完成されたと考えるのが自然である。

上述のような不鮮明ではあるが、いくつかの状況証拠を積み重ねていくと、天才信長が発想し実行したであろう、兵農分離が見えてくるように思える。

参照:鬼と人と 堺屋太一 著

歴史大好きじいさんです。
史実はなかなか証明されないもの。だから面白く推測できるのです。

※画像はイメージです。

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