一介の足軽であった秀吉が戦乱の世で大出世を果たし、貴族の最高位である関白太政大臣に上り詰め、天下を統一したことは多くの人が良く知る史実です。秀吉の支配欲は留まるところを知らず、なくなる前に自身を神としてまつるよう遺言したとされています。そしてその願いは実現され、現在でもその魂は京都東山区の豊国神社に祀られています。
英雄が神として祀られる最初の人間が秀吉だった
人間が神として祀られるようになることは秀吉以前にもありましたが、それは英雄を祀るということとは真逆で、御霊信仰にもとづくものでした。御霊とは非業の死を遂げた人の霊の事で、神格を与え祀ることで祟りや災いを鎮めようとしたものです。古来、天災や疫病、飢饉は現世に怨みを残して亡くなった人の祟りであると考えられていました。これを鎮めるために行われたのが御霊会です。日本三大祭りの一つである京都の祇園祭ももとはと言えば、「祇園御霊会」でした。
人間が神として祀られている有名な例としては菅原道真公を主祭神とする天神信仰が挙げられます。菅原道真も左遷先の大宰府で失意のうちに亡くなりました。道真の死後、疫病や日照りが続き、醍醐天皇の皇子が相次いで病死するなどの異変が続き、これらは道真の怨霊の仕業であると考えられました。そこで醍醐天皇の勅命により、道真の霊を天神として祀ったのが太宰府天満宮の始まりというわけです。
このように、秀吉以前は怨霊を鎮めるために神格が与えられることはあっても英雄を神として祀るという例は皆無でした。
秀吉を神として祀った「吉田神道」
秀吉へ「豊国大明神」の神号と正一位の神位を与えたのは朝廷ですが、そうするためには手続きが必要でした。人を神としてまつるための手続きを実行したのが当時絶大な勢力を誇っていた吉田神道でした。
吉田神道は吉田兼倶が15世紀中ごろ戦国の混乱期に発展させた神道です。当時朝廷の支配力が衰退し神道を支える経済的基盤が失われる事態となって、その影響力も衰えを見せ始めていました。
吉田家は代々朝廷に仕える氏族で、吉田神社の奉祀を家職とする吉田卜部家を祖とする家柄でした。徒然草を著したことで知られる吉田兼好も吉田卜部家の一族です。吉田兼倶は神道と吉田神社の復興をかけて吉田神道という新しい神道理論を作り上げました。足利幕府に取り入ることにも成功し、その援助のもとに神道界に絶大な権力を有するまでになります。吉田神道は神道界のトップに君臨し、全国諸社の根源を祀るのが吉田神道であるとされるようになりました。吉田兼倶が作り上げた吉田神道の中でも特筆すべきは人を神として祀る「我即神」と呼ばれる秘儀を編み出したことです。これによって人が神として祀られることが可能となったのです。
秀吉は吉田兼見に働きかけて、死後自らを神として祀ることを依頼。その願いは実現して豊国大明神として祀られることとなり、同時に日本初の英雄神が誕生しました。
吉田神道と豊国神社のその後
吉田神道は江戸時代に入っても徳川家のバックアップのもと、権勢を維持し続けます。徳川家康自身も死後神となり「東照大権現」として日光東照宮で祀られています。この手続きは天台宗によって実現されたといわれていますが、ここにも吉田神道が何らかの影響を与えていたと想定されています。
往時の権力者にとって、吉田神道の教義は「とても便利な」ものだったのでしょう。天下人の誕生と呼応するかのようにこうした教義が生まれたのは、必然であったのかもしれません。その後、明治時代に入り政府が古代の制度に倣った神祇制度を設けたことで影響力を失う事となりますが、現在でも京都左京区に吉田神社は存在しています。
一方豊国神社は、江戸時代に入り家康の意向で豊国大明神の神号は剥奪され、豊国神社も廃絶とされましたが、明治に入り明治天皇の命によって再興され、現在も京都東山の地に存続しています。
なぜ秀吉は神になりたがったのか
秀吉は慶長三年、朝鮮出兵の最中に病没します。大国・明をも支配下に置こうとしたといわれています。天下統一では飽き足らず、大陸をも支配下に置き、さらには神となって現世に影響力を残そうとしたのか?
毛利家には、死の直前に書かれたとされる秀吉の遺言状の写しが残されています。その内容は息子秀頼の事をくれぐれも頼むという事が五大老あてに書かれたもので、幼い嫡子を残して死んでしまう口惜しさがにじみ出た内容です。
「秀頼の事、(中略)このほかには思い残すことなく候」とあることから、秀吉は自身が神になり、その加護で秀頼や家の存続を見守ろうとしたのかもしれません。残念ながらその真意を計り知ることができる史料は残されていません。まさに「神のみぞ知る」という事なのです。
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