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井伊の赤備えと彦根城と戊辰戦争

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徳川家の天下統一に大きな功績があった井伊家。
その井伊家・彦根藩が、260余年後の徳川家崩壊に際しどう動いたのか。
明治維新における、井伊家の意外な役割に注目。

目次

赤備え

井伊家初代当主・井伊直政は大河ドラマ「女城主 直虎」でも登場したましたが、長じてその武功から徳川四天王の一人に数えられた武将です。
直政率いる部隊は、赤で統一された甲冑から「井伊の赤備え」と呼ばれた、徳川家中の並み居る猛者の中でもひと際勇猛精強な部隊でした。

赤備えとは全国の戦国大名に畏れられた武田信玄率いる武田軍の赤い軍装の意匠です。
甲冑が赤で統一され、それは即ち強さの象徴でした。

武田家滅亡後、その精強さを惜しんだ家康が多くの武田家遺臣を引き受け、直政の膝下で武田軍になぞらえた軍勢を組織したのです。
勇猛果敢な直政の資質と相まって常に先陣を受け待つ井伊勢は誰もが一目置く軍勢となり、武田軍の強さを崇拝する家康から赤備えを許されました。

赤備えは徳川家においても飛び抜けた強さと忠誠の象徴なのです。

■ 『関ヶ原合戦屏風』に描かれた井伊勢。ただし赤い母衣を背負った武者は使番であって井伊の赤備えの一員ではない。
Snlf1CC BY-SA 3.0via Wikimedia Commons

彦根城

井伊直政が築城を計画した彦根城は琵琶湖東岸の北部、北近江に位置します。
北近江は、東から東海道、中山道、北から北陸道が集まり、京へと続く要衝の地です。

琵琶湖東岸は、織田信長が安土城を築城する様に軍事的政治的に重要な場所で、彦根城は、家康としては大阪城を頂点とする西国大名の勢力に対する最初の防衛陣地として最重要の城でした。

井伊直政がそんな要衝の地に封じられた事も、井伊家の忠誠心と精強に対する家康の信頼度が推し量れます。

井伊直弼

有名な桜田門外の変で暗殺された井伊直弼も、彦根藩・井伊家当主です。

桜田門外の変は、直弼が大老として幕閣に参画し、反幕府勢力を超強力に弾圧した安政の大獄を推し進めた結果、それに反発した尊攘派の志士に打たれたものでした。

つまりここでも井伊家は徳川家最大の忠臣として、与えられたその役目を果たそうとしたのです。

■ 井伊直弼
Kanō Eigaku (1790–1867) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由

彦根藩の動揺

しかしそんな井伊家・彦根藩は戊辰戦争の初戦である鳥羽・伏見の戦いの際には、それまでの徳川家一筋の姿勢が緩みました。
その動揺振りは、幕府側につくか官軍側につくかを藩士達に諮問した事に現れています。

江戸期の藩政においては、藩主と一部の重臣のみでその方針は決定され、完全な上位下達で藩意は伝わって行きました。
藩士に選択の余地はなく藩命を実行するのみが当たり前の時代に、藩士に意見を聞くなどは前代未聞の珍事で、その事自体、井伊家含む彦根藩全体の動揺の激しさを証明しています。

徳川家最大の忠臣として自共に認められていた、井伊の赤揃えに始まる井伊家・彦根藩のこの動揺が、去就を迷う他藩に及ぼした影響はきっと大きく、明治維新の行く末を左右した一因だったに違いありません。

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