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『ひめゆりの塔』その歴史には敬意をもって臨んで欲しい

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『ひめゆりの塔』は特別な場所です。
子供の頃に関連書籍や映画に触れて以来、いつかは行かなければならない場所だと思っていました。

昭和50年代、小学生だった私は課題図書で初めて『ひめゆりの塔』を知りました。
感想文を書くために何度も読みこんだそれは、母よりもすこし年上だった世代の女の子たちの命がけの戦いを書き残した、文字通りの『戦記』だったのです。
今よりも少し前には、その生還者たちが生の声で当時のことを語り、伝えていく活動が盛んでしたが、残念ながらご高齢になり、多くの方が亡くなられてしまいました。

目次

ひめゆりの塔

夫の仕事に伴って度々沖縄を訪れる機会があり、いつかは行かねばと思っていた『ひめゆりの塔』です。
南部に集中するその激戦地は車がないと訪れるのが難しい場所ですが、二月半ばに初めて訪れることになりました。

少し風が強い、肌寒い日、混むというほどではありませんでしたが、展示施設は静けさに包まれながらも、訪れる人は途切れることはなく、その年齢層は小さなお子さんからご高齢の方まで、さまざまでした。意外なことに、若い男性のグループも良く見受けられました。

なかにはポケットに手を突っ込んだままで喋りながら入ってくる人もいましたが。しんとした展示室の中で、次第にその声が小さくなり、じっと展示物に目を凝らすようになっていきます。私自身もそうでしたが。彼らも、現実と歴史の重さに圧倒されていたのだと思います。

そこに並んでいたのは

そこに並んでいたのは、ごく当たり前の当時の10代の女の子たちの姿でした。
仲良く学校に通い、身近な人や映画スターに憧れ、家族や友人を愛し、生真面目に日々を生きていた、将来を嘱望された女の子たちです。
恐らく、当時の沖縄に於いてはエリート中のエリートです。だからこそ、看護婦として従軍することを命じられて逃げることもできずに巻き込まれて行った多数の女の子たちの悲劇が、そこに細大漏らさず残されていたのです。

家族から寄せられた形見の手紙や学校の授業のノートには、綺麗な字で綴られた想いや、美しさすら感じる数式がありました。そんな彼女らであったからこそ、生き残った生徒たちは、大きな葛藤を抱えながらもその想いを受け継いで語り、その場所を大切に残していったのではないでしょうか。

同行していた夫は『アメリカンビレッジ(人気のショッピングモール)に遊びに行って、ここも見に来るって、どんな気分なんだろうなぁ』と口にしていましたが。それでも、素通りするよりは、ここに立ち寄って何某かの思いと記憶を刻んで帰ることが大切なのだと思います。

実際にここを訪れて

実際にここを訪れて、生徒たちと同様に多くの引率者たち教員や学校職員たちが、命を落としていたことを知りました。彼らもまた家族と別れて戦場に動員され、生徒たちを守りきれずに亡くなっていたのです。そのことは、もっと知られるべきではないかと思いました。
この場所に来て、見て、空気を感じたことにはきっと意味があるはず。

そして周囲を調べれば、それこそ無数に沢山の人が理不尽に蹂躙されてきた場所が点在していることに気付きます。
空も海も、ただ綺麗にそこにあるわけではないと感じました。
沖縄を訪れる機会があったら、是非一度、南部の海沿いの土地に足を運んでみてください。
きっと『何か』を考えるきっかけになるはずです。

※画像はイメージです。

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