緋村剣心のモデルとなった人斬りとは?

主に幕末関係のことが大好きで、維新志士側や新選組などの情報を色々と調べています。
るろうに剣心にハマり、北辰一刀流を習い、当時の剣術や抜刀術などもうなくなってしまった流派等をしらべたりしております。

緋村剣心のモデル

緋村剣心のモデルとなった人斬りになったのは、身長150センチと小柄な体格、一見女性にも見える容姿だったと伝わる河上彦斎(かわかみげんさい)という人物です。
元々は肥後藩に仕える坊主で、文武両道であったと言われています。

後に宮部鼎蔵という人物と出会い、その頃から尊皇攘夷に興味を持ち、吉田松陰の元で学びたくなり、脱藩ではなく裏工作、あくまでも仕事の一貫として、肥後藩から京都警護という名目で京都へと昇ります。
吉田松陰塾に通い始め、桂小五郎や上杉晋作などと共に勉学に励み、切磋琢磨と剣術と文学を学んだといわれております。

しかし、尊皇攘夷の思想が高まり、京都から地元である熊本に戻ることが決まったこともあり、そこで初めて河上は脱藩するのでした。
京都に残り攘夷志士としてひっそりと京都で生活をしていた頃、歴史的に大きく残る事件があり、それから人斬りというものに走ったと言われております。

その事件とは?

その事件というのは「池田屋事件」。
幕末好きでなくてもうっすらと聞いたことのあるこの事件、河上は尊敬していた宮部が殺されたことでより一層、討幕への意志が固まったと言われてます。
そして元祖人斬りと言われた佐久間象山の暗殺を決行し、成功しました。
ある説では、佐久間象山自体が宮部を殺したのではないかという噂があり、ある意味慕っていた友人を殺されたための仇討ちという解釈もされています。

その数日後、禁門の変が起こり長州藩と共に戦う事になります。
脱藩したとはいえ、当時幕府軍についていた肥後藩を説得するため、周りの制止を聞かず藩を説得するために肥後藩に戻り、脱藩の罪状で一年間の投獄。
その間に大政奉還や鳥羽・伏見の戦いや倒幕などがあり、事実上では鳥羽・伏見の戦いには参加していないとされています。

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理想と現実に際悩まれ

桂小五郎などの力などで外交官として働くも、尊王攘夷の思想とともに彦斎が過去一緒に奔走してきた同志たちが名を連ねる新政府でしたが、この時すでに攘夷の思想は新政府には無く、着々と開国の準備が進められていました。
彦斎はこれを聞き愕然とし、かつて行動をともにした桂小五郎や三条実美らと面会し議論するも、新政府の方針は変わりません。
勝海舟ら旧幕臣と連携しようと奮起しますが、これも実現することはありませんでした。
描いていた理想と現実に際悩まれたと伝わっています。

狂い始める人生

外交官をやめ教育者として『有終館』という海兵や陸軍兵を育成する学校を創設するも、長州藩士・大楽源太郎が訪ねてきたことで人生は大きく狂い始めます。
大楽は暗殺の首謀者として追われる身でありながら、明治政府の転覆を狙い新たなクーデターを画策するため、彦斎に助けを求めにやってきました。

有終館の兵をかしてほしいと頼みこみますが、藩の兵を動かすことはできないと彦斎はこれを拒否、しかし見捨てることができず大楽とその仲間を匿いました。
そのことで、藩からも疑いをかけられ、せっかく杵築あげた『有終館』も2年で閉めることになります。

関与していない事件に、対しても危険因子ということで、わずか38歳という若さで斬首刑に処されてしまいます。今で言うところの冤罪に近いもの。
しばらくは晒し首として晒され、有終館の門下生達は悲しみにあけくれたといいます。

皆が平等な平和な世の中を願っていた河上でしたが、理想と現実そして・・・昔の同士との思想の違いから波乱な人生を送った人物だと思います。

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