軍港・横須賀港の歴史を感じる秘話

歴史にまつわる話

現在海上自衛隊・自衛艦司令部があり、米海軍第7艦隊の基地でもある軍港としての横須賀港は、ペリーの黒船来航のあった浦賀が直ぐ近くで、西洋式大型軍艦の造船を目的に1866年日本で初めての開設された歴史ある軍港です。

日本の軍港の基礎として現代もなお続く横須賀港の歴史は、日本国の歴史にさえ係っていました。

小栗上野介忠順(おぐり・こうずけのすけ・ただまさ)の頑張り

幕末、西洋列強の武力に対抗し得る海軍力の必要性を痛感してた幕府勘定奉行・小栗は、本格的軍港の建設をフランスに依頼しました。

作者 不明Unknown author (東善寺所蔵) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由

しかし討幕の嵐が世を席捲する中、徳川家廃絶を回避する為に官軍に恭順を示す証に、建設中の横須賀製鐵所(造船所)の破壊を将軍慶喜は下知しました。

小栗はこの製鐵所が政権に拘らず日本の将来に不可欠だと考え,命を懸けて破壊実施を引き延ばします。
江戸城無血開城を官軍が受け入れた理由の一つには、横須賀製鐵所の無傷入手があると言われてます。

東郷平八郎の感謝

帝国海軍連合艦隊司令長官・東郷平八郎は日露戦争後間もない時期に、小栗忠順の一人娘・国子を自邸に招待しました。
対討幕勢力強硬派だった忠順は、戊辰戦争中に官軍によって賊軍逆臣として斬首されています。

日露戦争当時の世間でも忠順に対するこの悪評価は依然として残っていました。

By Unknown photographer [Public domain], via Wikimedia Commons

そんな中、その遺児・国子を招いた東郷は国子に対し、忠順への感謝と犯罪者として扱った過去の官軍の非礼を詫びました。

曰く「日本海海戦の大勝利は小栗殿が命を賭して残してくれた横須賀造船所があればこそです。ここでの十分な艦艇整備が大勝利の大きな一因です。小栗殿は決して逆賊などではありません」。

この時、東郷が国子に送った「仁義礼智信」と書かれた扁額は、忠順の墓がある東善寺に今も掲げられています。

江戸時代の機械が原子力空母・ミッドウェイを修理した!

1886年(慶応2年)建設の横須賀製鐵所には、蒸気力で稼働する巨大な鍛造圧延機械である、当時の最新式スチームハンマーが6台導入されました。

それらの機械は此処が大日本帝国海軍の鎮守府になっても使用され、太平洋戦争後米海軍基地となった後も使われ続け、その内の一基、1865年ロッテルダム製の刻印がある3トンハンマーは1996年(平成8年)まで現役で、米海軍原子力航空母艦・ミッドウェイの修理時にも活躍しました。

この3トンハンマーは現在はヴェルニー記念館に保存展示されています。
また鐵工所開設時のドライドッグ(船渠)3基は今もなお現存し、米海軍・施設船舶修理施設として使用され続けています。

130年以上も前に建設された軍港・横須賀港の施設が基礎となり、軍港として現在に至るまで続いている歴史の奥深さに感嘆を禁じ得ません。


Writing by 歴史大好き爺さん
歴史は断片的な事象ではありあせん。過去から現在、そして未来へと連綿と続く大河の流れです。
過去の出来事があらゆる意味で今を作っています。それが歴史の面白さです。