『ダンダダン』のアニメ2期が始まった。
1期は楽しめたので、2期開始をお祝いしがてら題材にしよう。
1期から2期に跨がるエピソードでは「人柱」が扱われている。
人柱とは、難工事を上手く進めるために、生きた人間を埋めて無事を願う儀式である。
人間の成分は、最も強いもので炭酸カルシウム程度であり、木材や石材の方が遙かに頑丈であるから、建材的な意味で「柱」になっている訳ではない。
間違いなくオカルト儀式だ。
だがこれを、未開な蛮習と切り捨てるのは正しくない。人間の行動は合理の積み重ねだ。
オカルトも合理の末に出現するものだ。
人柱は、神への願い事?
人柱は「人身御供」の一類型と考えられる。
すなわち、神や鬼、悪魔など、大きな力を持つオカルティックな存在に対し、人が持つ最も価値あるものであるところの「命」を犠牲に差し出す事で機嫌を取り、便宜を図って貰うという考え方である。
日本においては、古事記や日本書紀の段階で人身御供の描写が見られる。
八岐大蛇を鎮めるために櫛名田比売(くしなだひめ)は人身御供にされる寸前であったし、荒れる海を沈めるために自ら身を投げた弟橘比売命(おとたちばなひめ)は、実際に命を落としている。
西洋に視点を移せば、古代ギリシャではアンドロメダが、旧約聖書ではイサクが父の手で生贄にされかけている。
人柱に絞ってみると、これが日本で最初に記されたのは8世紀に成立した「日本書紀」とされる。
仁徳天皇の時代(5世紀)、茨田堤を建設する際に2名の人柱を立てたという。
ここで分かる事は、そのエピソードの真偽ではなく、8世紀の時点で人柱という習慣がある程度一般的なものとして伝わっていたという事実である。
やはり、神頼みの一環として人柱は始まった、人身御供でしかないのか?
恐らく、否である。
神なき世界に生じる人柱
我々にとって、オカルトは生まれつき既に存在するものである。
生活様式から話す言葉、科学技術の解釈に至るまで、我々の文明にオカルトは食い込んでいる。
だから神仏に祈れば、何となく良い事をしてくれそうな気がするし、誰も見ていなくても悪い事をするとバチが当たりそうな気がする。墓に小便をかければ、呪われそうな気にもなる。
だが、野生の獣に神はいなかった筈だ。
人間がまだオカルトに辿り付かない、原初を考えてみよう。
神がまだ発明されていない頃、原初の人々が土木工事に携わっている、そんな光景だ。
この時代に「人を殺して神に満足して貰おう」という発想は出て来ない。
何故なら、神はまだいないからだ。
神が実在して実際に生贄を求めたという場合は、合理的な行動と言えるが、だとしたらその原初の神々の力が及ばなくなった時点で、人柱という習慣は華々しく終了している筈だ。
そしてそれを記録に残さないのは不自然だ。
ここで発想は逆転する。
人柱は、神から発したものではない。
人柱から発したものが、神だったのではなかろうか。

人柱から神が生じる
古代において、土木工事は些細なものであっても危険を伴うものであったろう。
安全基準もない時代だ。
柱1本立てるだけでも、木材を切り倒す時、運ぶ時、立てる時、あらゆる場面で死のきっかけがある。加工中の僅かな傷が化膿して死ぬ事だって珍しくはなかった筈だ。
まして橋や堤など、水に抗う工事は、死人が出ない方がおかしい難工事だ。
常に従業者の溺死の危険が付きまとう。溺死を免れても、流木との衝突や、長時間水に浸かって作業する事による傷病で、結果的に命を落とした者も無数に発生した筈だ。
すなわち、人柱を立てるまでもなく、土木工事には無数の命が費やされた。
当然、工事が始まる以前は以前で、そこで死者が発生したろう。川なら無理に渡ろうとして流された者、堤なら氾濫に巻き込まれた者など。だからこそ、工事に踏み切った訳だ。
一方、死者を遠ざける感覚は、生物的な本能だ。
同族の死体に何の反応もしない場合、疫病や死肉を狙う外敵を見逃す事になる。移動し続ける生活ならともかく、社会を築き定住が始まれば、死体の処分は必須だ。
その頃には、既に死を穢れとする思想はあった筈だ。
死を穢れとして遠ざける思想は、しかし土木工事を進める妨げとなる。
死者が出る度に喪に服し、遠ざけていては工事がどれだけ遅くなるかは分からない。
そのため生まれた思想が「人柱」だったのではなかろうか。
土木工事現場で死んだ人は、柱のごとく工事を支え、役立ってくれる。
だから、穢れとして遠ざけるより、感謝して受け容れ、工事を進める。
死者が何人も出る難工事は、それ故に成功に近付く。仮に自分の命が失われても、必ずこの工事を前進させる1柱となる。
これにより、大地の形を変える大工事は完成し、人々はそれを見ながら生きる。
犠牲となった祖先への感謝は祖霊信仰となり、自らもそれに連なる者として、共同体への献身も素直に受け容れる。
それが更に共同体を堅固とし、土木、建築工事による資産は、人々を豊かにする。
神の国産み神話へは、ここから半歩進むだけで良い。
歪みゆく人柱伝説
その後、人柱の概念だけが残り、形骸化した。
土木工事を完成させるために死んだ人という概念は、死んだ人がいれば、土木工事は完成させられると読み違えられる。
よくある読み違えだ。
受験勉強の時、眠る時間を削るほど勉強をする時間が大事なのに、眠らない事が重要と思い込む。
残業するほど多くの仕事をこなすと褒められるのに、残業そのものを褒める。
愚かしくも有り触れた間違いだ。
これによって、悪名高い人柱が始まったのではなかろうか。
始まった、と言ったが、実はこれは語弊がある。
人柱伝説の中に、それが実行されたという証拠が明確なものはない。
少なくとも、日本の中で当然の習慣として人柱が行われた事はない。
あくまで物語、お話の中の蛮習だ!
当然である。
人柱が当然の習慣であるなら、伝説として語り継がれる筈がない。
つまり「未開人の人喰い習慣」「キリスト教の敵は近親相姦と同性愛好き」「西洋人はどんなに頑張っても箸を持てない」みたいなもので、何かしら他の文化圏を貶めるテンプレートが、人柱であり人身御供である可能性も高い。
工事をした人々と、それを後から占領して利用している人々という構造なら、人柱伝説をねじ込む合理性はあろう。
そんな視点に立てば、何故「そこ」に人柱伝説があるか、腑に落ちるものも出て来るのではなかろうか。


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