本の街・神保町は千葉周作の北辰一刀流が深く関係しています。
文の本と武の刀がいったいどう関係するのでしょうか。
北辰一刀流・玄武館
剣術は武士の本分です。
武士たちは藩校など公設道場だけでなく、有名剣術家が主催する私設道場に好んで入門しました。
江戸時代後期、将軍のお膝元・江戸にはそのような私設道場が多くあり、中でも千葉周作が開いた北辰一刀流・玄武館は、鏡心明智流・士学館、神道無念流・練兵館と共に、後に江戸三大道場と称えられた道場です。
玄武館は、門弟六千人とも言われるほどの人気道場で、坂本龍馬も北辰一刀流を学んでいます。
この道場は1822年に日本橋・品川町で開かれましたが、直ぐ後に神田・於玉が池に移転します。
於玉が池
於玉が池の玄武館に隣接して、儒学者・東条一堂の私塾・瑶池塾が開かれていました。
現在、玄武館と瑶池塾跡には、文武両道を意味する「右文尚武」と刻まれた石碑が建っています。
つまり玄武館と瑶池塾が隣り合っているのは偶然ではなく、武士の本分は剣術にはあれど、世の統率者として文を忘るるべからず、という意図を持っていたのです。
玄武館に通う多くの若者が、この教えに従って瑶池塾で儒学と詩文も学びました。
昌平黌と象山書院
昌平黌(しょうへいこう)は江戸幕府直轄学問書で、全国の諸藩から藩内選りすぐりの優秀な若者が学びにやって来た、いわば本邦随一の学問所です。
於玉が池はこの昌平黌はからそう遠くない場所にあり、そんな所に人気剣術道場の玄武館ができれば、当然意気軒高な若侍がますます集まるわけです。
於玉が池には後に、漢学・朱子学で一家を成した佐久間象山の私塾・象山書院や、漢詩人・梁川星巌の玉池吟社が開かれており、武と文の学びを求めて増々若者がこの地域に群がることになりました。
さらには於玉が池種痘所が設立されていて、この種痘所と昌平黌が現在の東大の源流となっています。
学問の街
こんな風に、今のお茶の水・神田周辺は、江戸時代から学問の街、若者の街だったわけです。
その流れは明治、大正と続き、その素地があって今のような大学の街に発展していきました。
学びを求める若者が集まれば、自然の成り行きとして勉学の為の書物が不可欠です・・・それが神保町です。
へえ、アレとソレとがコレにそれほど関係していたとはね。
歴史ではよくある話です。
※画像はイメージです。
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