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北条時宗・・・元寇から日本を救った英雄なのか?

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日本の歴史にはいろいろな北条が登場しますがが、北条時宗はモンゴル帝国の戦いから二度も日本を守った英雄として知られています。彼は鎌倉幕府の八代目の執権を任された人で、かなり若い内から就任しました。
モンゴルによって日本が初めて海外から攻撃を受けるという元寇のピンチが訪れましたが、その都度日本を守ったという彼は本当に英雄だったのでしょうか?

目次

北条時宗とは?

北条時宗は鎌倉幕府において執権職を世襲している得宗家の時頼の次男でした。兄がいましたが側室の子だったので、正室の子供である時宗が次期頭領になります。得宗家は北条氏において執権を世襲している嫡流の後継者で、時宗は7歳で元服しており、元服の場には北条一門や公家などが立ち会っており、次期後継者として彼は周知されることになりました。

時宗はいろいろな役職に就任することになり、安達義景の娘である堀内殿と夫婦になります。14歳だった時宗は執権補佐の連署を任されるようになり、幕府転覆を計画していた宗尊親王を京都から追放することに成功しました。ある日、高麗の使節団がモンゴル帝国のクビライハーンの書簡を持って、太宰府を来訪する事件が起こります。文書は貿易を求めたり、モンゴル帝国に服属することを求める内容でした。文書は幕府に送られるようになり動揺が走ります。

その頃18歳の時宗は第八代執権になっており、当時外交の仕事は朝廷が行うことになっていたので、幕府は朝廷に文書を回すことになりました。事実上黙殺するような形になり、モンゴルによって滅ぼされた高麗からの援助要請も無視することになります。北条時宗の性格について、家族・親戚への粛清について厳しい姿勢を見せることもありますが、禅宗に帰依しており信心深い面もあったそうで、鎌倉・円覚寺の開祖になって保護しています。

最大のピンチ

北条時宗はかなり若い時に執権に就任しましたが、いろいろなピンチを経験することになります。得宗家の力を維持するため、幕府転覆をもくろんでいた宗尊親王を廃位したり、京都から追放しています。異母兄である時輔や同じ一族の時章、教時などを謀反の疑いで討伐しており、関係した御家人などを配流する二月騒動を起こしています。

日本が初めて異国から攻撃されるという元寇が起こり、モンゴルがやって来ました。モンゴル軍がやって来た最初の戦いは文永の役で、対馬や博多などへ上陸してきたモンゴル軍と日本の軍隊は激しいバトルを行うことになります。モンゴル軍は撤退を始めていると暴風雨が襲われてしまい、モンゴルの船はかなりのダメージを受けたことによって、日本はモンゴル軍の撃退に成功しました。北条時宗はモンゴルからの使者を見せしめに処刑しており、厳しい態度で臨んだそうです。文永の役をきっかけにして、石累を構築したり兵の調達などを行って国防を強化するようになります。

次にモンゴル軍がやって来たのは弘安の役ですが、神風と言われている台風や日本軍の攻撃によって大敗することになりました。二回も海外勢力から日本を守ったことによって、北条時宗は英雄として語り継がれることになります。

次期天皇をどうするかという朝廷の争いに対して裁定を下しており、交互に二系統から天皇を出すという両統迭立が開始されることになりました。しかしこの二度の戦いの後、海外からの敵と戦った御家人に対してどのように恩賞を与えれば良いのかという問題が起きたり、国防の強化など着手しなければならない問題がたくさんありましたが、そんな中北条時宗は34歳で亡くなってしまいます。

はたして英雄だったのか?

英雄扱いされている北条時宗ですが、英雄だったとは言いがたい見方もあります。文永の役の場合は単なる偵察だったのではという説があり、武士と少し戦っただけですぐに帰ったとも言われています。神風が吹いたということではなく、そもそも早めにモンゴルに帰還する予定だったのかもしれません。

2回目になる弘安の役では事前にモンゴルから使者が送られていますが、時宗はモンゴルからわざわざやって来た使者の首を全員切ってしまいました。これに怒ったクビライハーンは大軍を日本に向けて送り出しましたが、その時たまたま台風がやって来て船は難破してしまいます。台風のお陰で日本は難を逃れることができたのですが、使者を殺した時宗の行為は日本を危険にさらす外交と言えるでしょう。

異国から軍が攻めてきたので武士たちは戦ったのですが、海外の敵を撃退したことになるので、敵の土地を占領して分配するわけにはいきません。北条家から何かしら領地などの分配があったなら良かったのですが、恩賞などがなかったので武士たちの中には不満を持つものが多かったようです。結局これが武士たちとの関係を悪化させていくことになり、北条氏は時宗や貞時、高時などの時代においてで武士から支持を失っていきました。

最後に

北条時宗は10代から大きな仕事を任せられたり、モンゴルから攻撃されるという大きなピンチに二回も直面しました。彼は海外からの敵に立ち向かったヒーローとして、後世において礼賛され続けるようになります。
彼には人気の高かった時代があり、幕末において尊皇攘夷のムーブメントが高まると、モンゴルという大国を倒した時宗に対して再評価されるようになりました。

太平洋戦争において皇国史観が高まり、海外からの敵に立ち向かった彼を礼賛する人が増えたそうです。家族・親戚を抹殺したり、過激な外交を行っていましたが、時代によっては北条時宗は日本のヒーローだったのでしょう。

featured image:日本語: 不明English: Unknown, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

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