太平洋戦争において、日本陸軍は九七式中戦車チハや九五式軽戦車ハ号を主力の戦闘車輛として戦いました。
しかし、火力は米英の戦車に比べて弱く苦戦を強いられました。
そんな中で高い火力を求めたのが砲戦車です。
砲戦車とは?
砲戦車の存在が日本本陸軍で登場するのは1937年(昭和12年)に「戦車隊と行動を共にする直接火力支援をする自走砲の研究」が提案された時です。1939年(昭和14年)には直接火力支援の自走砲を砲戦車とする事が決まります。
日本陸軍はこの砲戦車を敵の対戦車砲を制圧して、戦車隊の支援をする役割をする車輛としました。
いわば、砲兵的な任務を戦車の移動と共に出来る車輛として砲戦車が開発されるようになりました。
更に敵戦車との戦いが出来る高い火力も求められるようになります。
一式砲戦車ホニⅠ
日本陸軍が砲戦車の開発をする中でノモンハン事件(1939年)が起き、日本陸軍はソ連戦車に対して日本戦車の火力が弱いと自覚させられた。
この実戦の結果が砲戦車へ敵戦車とも戦う火力が求められました。
太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)から生産が始まった一式砲戦車ホニⅠが日本陸軍が実戦配備できた砲戦車でした。九七式中戦車チハの車体に九〇式75ミリ野砲を装備したホニⅠは敵戦車との戦いに火力を生かす車輛として開発されました。
戦車とはいえ、前面の盾となる装甲ぐらいしかないオープントップの自走砲と言う姿でしたが、太平洋戦争の半ばまで日本の装甲車輛では一番の火力を持ちました。
実戦では太平洋戦争末期のフィリピンのルソン島で数少ない米軍戦車を撃破できる戦闘車輛として戦いました。
二式砲戦車ホイ
砲戦車の開発で最初に作られたのが二式砲戦車ホイです。
このホイはチハの車体に、75ミリ山砲を搭載する計画で開発していました。
開発は山砲を基にした新規の戦車砲を装備した砲塔を、一式中戦車チヘの車体に載せる方向に修正されました。
1941年(昭和16年)に試作車が完成したものの、正式化は1943年(昭和18年)と遅かった。
この間に固定砲座ながらも日本陸軍では高い火力を持つホニⅠの配備が行われ、対戦車火力がそこまで高くないホイの生産は30両ほどで終わる。
戦車と組み自走できる砲兵と言う、最初の砲戦車構想を実現できたものの、太平洋戦争の戦場は米軍のM4シャーマン中戦車に勝てる戦闘車輛が望まれ、ホイは実戦に投入される事なく終戦を迎えました。
砲戦車は更に作られ
二式砲戦車以後も、砲戦車は作られます。
ホニⅠと同じ九〇式75ミリ砲を装備し、密閉の戦闘室を作った三式砲戦車
105ミリ戦車砲を載せ、最大で125ミリの厚さがある装甲を備えた日本版ヤークトティーガーと言える試製五式砲戦車まで開発が続きました。
対戦車自走砲として砲戦車は作られたものの、実戦投入はホニⅠだけで、開発と構想だけでは生産と運用の問題は解決されず真価が発揮できる場は少なかったのです。
featured image:日本語: 日本陸軍English: Imperial Japanese Army, Public domain, via Wikimedia Commons
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