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夏の青空が嫌いだった曽祖父

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これは私が小学生の夏休みに、まだ健在だった曽祖父から聞いた話です。
曽祖父は特攻隊の教官でした。

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太平洋戦争末期

当時30代だった曽祖父は特攻隊の養成所で教官をしていました。
まだあどけなさが残る若者たちに特攻の時に乗る飛行機の操縦法、そして精神論などを教え、鹿児島にある知覧へ送り出すという仕事をしていました。

たくさんの若者に知識、技術を教え、すべては「お国のために」と働いたそうです。
時には厳しい指導に耐え切れずに逃げ出そうとする人、泣き出す人もいたそうですが、叩いてでも指導を続けたと言っていました。

若者たちは指導が終わると「ありがとうございました!」と大きな声でお礼を言って旅立ったわけですが、みんなどこか表情に陰りがあったそうです。
皆、家族の写真やお守りなどを大切そうに握り締め、戻ってこれる保障も無いなかで覚悟を決めて向かっていったのです。

曽祖父にも子供が二人いました

曽祖父も当時、既に子供が二人いましたが、若者を送り出すことに迷いはなかったと言っていました。それは自分が行っていることがすべて「お国のため」に繋がっていると思っていたからでした。
しかし、太平洋戦争は日本の敗戦で終戦しました。

戦争が終わると、曽祖父はたくさん送り出した若者たちのことが脳裏から離れなくなったそうです。
自分が技術さえ教えなければ、その若者たちは飛行機の乗り方なんて知ることは無かったからです。

祖父の思い

自分が「お国のために」とやってきた行動が、結果としてたくさんの命を散らせてしまったと気付いたとき、涙が止まらなくなり自分自身が憎くて憎くて仕方なかったそうです。

それから毎年、夏の青空を見ると必ず思い出すと言っていました。
そして「夏の青空は嫌いだなぁ」と悲しそうにポツリと呟いた姿が今でも印象に残っています。

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