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徳川13代将軍 徳川家定は異常者だったのか?

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2008年のNHK大河ドラマで放送された「篤姫」は徳川第13代将軍徳川家定の御台所(正式な奥様)となった島津斉彬の養女・篤姫を描いた物語でした。大河ドラマはあくまでフィクションとして見るべきものですが、この時のストーリーでは家定は「あえて異常に振る舞って見せている正常な人物」として登場します。

しかし多くの歴史書では家定は「廃人同様」「知的障害者」とされていることが、ほとんどです。少しでも歴代の徳川将軍についての知識をお持ちの方なら、間違いなくワースト2に入る将軍というのが常識だと思います。

ですが家定について細かく調べてみると「廃人同様」な人物には、とても出来そうもないエピソードも残されているのです。2008年の大河ドラマで描かれた家定は、こうったエピソードに基づいて作られたものではないかと思われます。

一体、本当のところはどうだったのでしょうか? 
黒船に乗ってペリーが来日し、幕末に向けて時代が走り出すという時に将軍職に就いていた徳川家定の人物像を、あらためて検証してみたいと思います。

目次

家定の気になるエピソード

家定のエピソードで気になるのは以下の2つのエピソードです。

1. 家定は「お菓子作り」が趣味

家定は「お菓子作り」が趣味で自分でカステラ、饅頭、ふかし芋を作っては家臣に振る舞い自分も食べていた。
皆さんの中にカステラや饅頭を自作できるだけの知識をお持ちの方はいらっしゃるでしょうか? 

実はカステラ、饅頭といった和菓子は案外に作るのが難しいのです。特に饅頭は皮と中の餡を別々に作る必要があり、結構、高度な知識と技術が要求されます。それが「廃人同様」の人物に出来るでしょうか?

2. 家定についての記述

アメリカ公使、ハリスの日誌に記されている家定についての記述。
初代在日アメリカ公使として家定に謁見したハリスは以下のように書き残しています。

「遥か遠方より使節をもって書簡の届け来ること、ならびにその厚情、深く感じ入り満足至極である。両国の親しき交わりは幾久しく続くであろう合衆国プレジデントにしかと伝えるべし、と告げ将軍らしい態度も見せた」

ちなみに、もちろんですが上記は日本語訳でありハリスの日誌は英語で記述されています。つまり「挨拶の部分は同席した通詞(通訳)が言った言葉」であり、家定、本人が同じ内容のことを言ったという確証はありません。

しかし、最後の「将軍らしい態度も見せた」という部分だけは違います。この部分だけは「ハリスが自分の目で見た事実」であり通訳の言葉ではないのです。

日本語: 不明(狩野派の絵師)English: Unknown (A painter of the Kanō school), Public domain, via Wikimedia Commons

1のエピソードを補強する材料

更に1のエピソードを補強する材料として、自分でお菓子を作って食べていたのは「毒物による暗殺を恐れていたから」という説があります。

家定は父である12代将軍、徳川家慶の四男ですが、徳川家慶にはなんと27人の子供がおり、家定には男兄弟が13人もいたのです。ですので、四男であり生まれつき病弱だった家定が跡継ぎになる可能性は非常に低かったのですが、27人中、26人が成人する前に死んでしまい、たった一人、生き残った家定が跡を継ぐことになったのです。

現代の感覚から見れば「27人中、26人が死亡」というのは異常ですが当時は天然痘が猛威をふるっていた時代でもあり、成人前に死亡する例は珍しくなかったのは事実です。「7つまでは神様のうち」と言われ、7歳になる前に亡くなることも多く「七五三のお祝い」というのは、そういった背景があってのことでした。

家定も天然痘にかかり、死にかけた、という事実もあります。天然痘は自然治癒した場合、顔や身体に醜い跡が残ります。家定が人前に姿を見せるのを極力避けた、というのは、そういう事情があってのことと思われます。とはいえ、それは「当時の一般的事情」であり、徳川将軍家となると少し話は変わります。

徳川将軍家の跡継ぎ争いというのは3代将軍、徳川家光から続く伝統行事であると言っても良いからです。これは、あくまで私の想像ですが死んだ13人の男兄弟の中には毒物で暗殺された子もいたのではないでしょうか?

そして家定は、それを知っていたのではないでしょうか? 14代将軍、徳川家茂の死は毒殺によるものではないか、という噂が絶えないことを、この時代の歴史に詳しい人ならご存知だと思います。切り殺したら「事件」ですが、毒殺なら「病死」で片づけられるので、殺す側には都合が良いのです。あくまで噂の範疇ですが、家定は祖父で11代将軍であり、当時、大御所と称していた徳川家斉に招かれた際、出された食べ物、飲み物に一切、口を付けなかったという話も残されています。

ハリスの日誌が語る真実

初代在日アメリカ公使となったハリスは、日誌に更に「家定は言葉を発する前に頭を後方に反らし、足を踏み鳴らした」と書いています。

ちょっと変な動作ですが、実は、この動作は脳性麻痺により身体の一部が不自由になった人が取る典型的な動作パターンなのです。更に「しばしば癇を起こした」ということも伝えられています。「癇」とは、発作的に痙攣、引きつけ、失神が発生する病気の総称ですが、これは「アテトーゼ型脳性麻痺」の患者さんに非常によく発生する典型的な症状でもあるのです。つまり、家定の「生まれつき、病弱な体質」の正体は「アテトーゼ型脳性麻痺」ではないかと推測できるのです。

アテトーゼ型脳性麻痺は妊娠中、あるいは生後一か月の間に何らかの原因で脳に損傷を受けることで発生します。脳性麻痺というと、知的障害を伴うものと思われがちですが、アテトーゼ型脳性麻痺は運動機能に障害が起こるだけで、知的障害は起こさないことが圧倒的に多く、お菓子作りが出来た家定も知的障害はなかった、と考えるのが自然です。

つまり家定は「運動障害はあるが、知的発達は正常であった」と考えられるのです。知的障害のある人が「暗殺を恐れること」はできないので、噂話が本当なら、この推測の裏付けになるでしょう。

父、徳川家慶の心配と篤姫との結婚

しかし、いくら「知的発達は正常」と言っても、人には器量というものがあります。跡継ぎが他には、もういないと言っても天下を治める将軍職です。それだけの器量が求められるのは当然ですが、残念ながら家定には、その器量がなかったようで、父である徳川家慶は、それを心配し一橋慶喜を跡継ぎにしよううか、と真剣に考えたと伝えられています。

しかし老中らの反対もあり、結局、家定が跡を継ぎます。しかし家定は奥さん運(将軍では御台所)がなく最初の鷹司任子、2番目の一条秀子は家定より先に病死してしまいます。「篤姫」は3番目の奥さんだったのですが、篤姫と結婚してから僅か2年後に、今度は家定自身が病死してしまいます。つまり篤姫との結婚生活は、たった2年しかなかったのです。

しかし篤姫は家定を理解してくれ、夫婦仲はとても良かったと伝えられています。家定のお菓子作りを手伝う、後の天璋院篤姫の姿は歴代の徳川将軍家では「考えられない光景」であったでしょう。

決して「幸せな人生」とは言えない家定の一生ですが、最後の2年間だけは、安らかで楽しい一時であったと言えそうです。つまり家定は運動障害と外面的な問題はあったけれど、中身は異常ではなく正常で、ごく普通の人だったと結論づけられそうです。

家定の死後

家定の死後、天璋院篤姫は徳川将軍家の幕引きのために怒涛の幕末の時代に立ち向かいます。江戸城無血開城は西郷隆盛と勝海舟の会談で決まりますが、そもそも西郷が会談に行く気になったのは篤姫が送った手紙を読んだからと言われています。

篤姫は薩摩藩出身なので西郷とも面識があり、それを頼みの綱として西郷に渾身の思いを書き綴った手紙を送り、それが西郷を動かしたのです。そして大奥を始めとする江戸城内の後始末を行い、自らは故郷の薩摩には帰らず明治以降も東京の徳川家に残り、死ぬまで元大奥関係者の世話に私財をも投入し、明治16年に49歳で亡くなるまで面倒を見続けました。

死後、残された財産は僅か3円だったそうです。(現在の貨幣価値に換算すると6万円位)幕末の怒涛の嵐から東京の町と人々を守ったのは、徳川13代将軍、徳川家定夫人だったのです。つまり家定の最大の功績は「彼女と結婚したこと」と言えそうです。もし天璋院篤姫がいなかったら江戸/東京は火の海となり大勢の死者が出ることは確実だったのですから。

featured image:日本語: 不明(狩野派の絵師)English: Unknown (A painter of the Kanō school), Public domain, via Wikimedia Commons

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