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天正伊賀の乱 伊賀衆の強さの秘密とは?

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天正伊賀の乱、どの大名も忍者を駆使し情報戦、特殊部隊として使っていました。
信長を恐れさせ、怒らせた伊賀の戦いとはなんだったのでしょう?
天下布武を掲げている織田信長を恐れさせた、その秘密について探っていくことにしましょう。

目次

伊賀の国

伊賀の国では日中は士農工商の仕事に従事し、それから日暮れまでは武芸を磨いていました。
その武芸の中に「密謀の通力」というものがあり、この「密謀の通力」が所謂忍びの術です。

信長が畿内まで支配下にしていても伊賀にが手が出せずにいたのは、伊賀と繋がっている甲賀が連携して、信長の侵入を防いでいたためでした。
しかし天正7年(1579年)、信長の次男の信雄が信長に無断で伊賀に1万の大軍で出兵しまます。

伊勢から山を越えて伊賀領内に侵入。
その時、突如山の中で待ち伏せしていた伊賀衆が襲い掛かりました。

伊賀衆の奮闘

伊賀衆は地の利をよく活かし、いろいろな場所に砦を築き、矢、鉄砲を駆使して、信雄軍を山の崖へ追い落します。
これにより信雄軍は数千の兵を失う事になります。
敗戦はすぐに信長に伝わり、2年後の天正9年に信長は改めて5万の大軍をつかい4方から伊賀に攻め込みました。

砦に籠り徹底抗戦するも多勢に無勢、徐々に追い込まれていき、最後に立てこもった柏原城も兵糧が尽き、降伏することになったのです。
そして、伊賀最後の拠点の柏原城で和議を結び終戦となり、翌月に降伏した伊賀に織田信長は自ら視察に訪れます。

伊賀の抵抗

信長が伊賀国一の宮の敢国(あえくに)神社で休息していた時のこと。
突如、複数の銃声が響き、近習たち数人がばたばたと倒れました。
狙撃されたのです・・・しかし信長自身は奇跡的に無事でした。

負けてもただでは済まない、執念がすごいと思います。
現在も忍の子孫が三重県伊賀市に住んでいますので、よかったら出かけてみてはいかがでしょうか?

※写真はイメージです。

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