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帝国陸軍は世界情勢を正しく把握していた軍人もいた?

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「日米開戦絶対不可」という30通もの電報は無視されました。

目次

日米開戦前の主な動き

まずは日米開戦前の主な動きについて説明します。

1939年8月 独ソ不可侵条約締結
1940年7月 ドイツ、英本土上陸作戦開始
9月 日独伊三国同盟締結・日本、北部仏印進駐
1941年4月 日ソ中立条約締結
5月 ドイツ、英本土上陸作戦中止
6月 ドイツ、ソ連侵攻
7月 日本、南部仏印進駐
8月 アメリカ、対日石油輸出全面禁止、ABCDライン成立
12月 太平洋戦争開戦

英本土上陸作戦

日本の指導部は日米関係が悪化する中、欧州でのドイツの躍進を当てにした、英国の屈服を前提とする対米対応を考えていた。
それはドイツの英国攻略が成れば、ドイツとの同盟により米国は対日開戦を忌避するというものだった。

従ってドイツの英本土上陸作戦が始まると、日本はそれまで激しい賛否両論のあった日独伊三国同盟を締結し、またドイツに屈服したフランスの植民地である仏印北部に軍を進駐させた。
それはドイツ勢力の急拡大に便乗しようという、日本指導部の思惑通りだった。

しかし遠く離れた欧州情勢は微妙に変化し始めており、英本土上陸作戦に於いて海軍力が劣勢で空軍戦力に頼るドイツ軍は、英国のレーダー網と戦闘機による予想外の激しい抵抗に合っていた。

この英本土攻略について英国駐在武官、辰巳栄一少将や仲野好雄中佐らは、「不可能とは言わないまでも、極めて困難なり」と、大本営と報告している。
しかし大本営情報部部長からの驚くべき返信は、「独国の本作戦断念は考えられず。今電報の如く弱気な情報を送るなかれ」だった。

日本国内の人間にとって連戦連勝ドイツの後退など想像し得なかったのだ。
しかしやがてドイツは本作戦を断念する。

独ソ戦

共産主義が天敵ともいえるヒトラードイツは、ソ連と不可侵条約を結んで世界を驚かせた直後、英本土攻略を始めた。

当時、独ソを始めとする欧州情勢の専門家で、独自の情報ネットワークを現地で築いていた帝国陸軍の小野寺信(まこと)大佐は、ドイツの英本土上陸の状況に関する情報を収集していたが、その過程でドイツのソ連侵攻について確度の高い情報を得た。
しかし他の多くの欧州駐在武官はそれに賛同せず、ある武官は小野寺が英米の宣伝に惑わされていると非難したほどだ。
現地欧州でさえこの状況下、日本本国の指導部内では言わずもがなの状態だった。

ところがドイツは英本土上陸作戦を突如中止すると矛先を転じ、翌月独ソ不可侵条約を破って突然ソ連侵攻を開始した。
本作戦は同盟国日本にも秘されたまま準備が行われ、作戦開始当月に初めて駐独日本大使に連絡が入った。

日独伊にソ連を加えた対米勢力構想を目論んでいた日本指導部は、このドイツの動きに翻弄され大きく困惑したものの、それでもなおドイツのユーラシア大陸制圧を妄信して疑わなかった。

しかし独自情報ルートから冬季のドイツ軍苦戦を早々に掌握し、ソ連戦線での敗退を予想した小野寺は、
ドイツ勝利を見込んだ対米開戦は絶対不可という電報を、参謀本部宛に30通も打電し続けた。
だが盲目的ドイツ信奉に陥っていた指導部はこの全てを無視し、仏印進駐を南部にも強引に拡大した。

結果、米国の対日石油輸出全面禁止措置が発動され、日本は対米開戦に大きく舵を切る事になる。

遠い国の戦争

ロシアが突如ウクライナに軍事侵攻をした時、多くの日本人が「遠い国の戦争」と思った。
それは一般人だけではなく、多くの国会議員や高級官僚もその程度の認識だった。
しかしすぐにガソリンや小麦が値上がりし、芋づる式に食料品電気ガスなどの価格が上昇し、やがて何もかもの値が跳ね上がって初めて慌て始めた。

そしてウクライナ戦争と酷似した国際政治環境に日本があり、自分たちが決して安全ではない事にも遅まきながら気づき始めている。
偏向のない情報収集と分析が今最重要であり、過去の日本人が陥った過ちを私たちは二度と犯してはならない。

歴史大好きじいさんです。
偏りのない目と思考による情報収集とその分析。
これが過去の日本には欠けていました。

参考出典
weblio辞典 小野寺信
nippon.com 連合軍を震撼させた諜報の神様 小野寺信
参謀の戦争 土門周平 著

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