肥後西郷・池辺吉十郎の誤算

幕末明治初期日本の最大にして最後の内戦・西南戦争。その時、西郷率いる薩軍に呼応して挙兵したのが、池辺吉十郎を首班とする熊本隊でした。しかし、池辺は北上してきた薩軍と合流直後に敗北を予感します。

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吉十郎隠棲する

池辺吉十郎は天保9年(1838)、肥後熊本藩の砲術師範の家に生まれます。藩の子弟を養成する時習館で学ぶと、その後は順調にキャリアを重ね、幕府軍として参戦した第二次長州征伐では破れはしたものの小倉口での奮闘を評価されて京都詰公用人や郡の役人を歴任します。明治維新後は、少参事に任命されますがこれまで順調だった彼の経歴は明治3年に暗転します。

熊本では幕末以来、勤王派の実学党と佐幕派の学校党が対立しており、藩主はこの両派の微妙なパワーバランスの上に権力を維持しているという状態が続いていました。こうした路線対立はどこの藩でも多かれ少なかれ発生しましたが、熊本藩が他藩と異なるのは、どちらかが決定的に実権を握るという局面が遂に訪れずそれぞれの勢力が明治維新後も残っていたという点です。池辺吉十郎は藩校時習館出身者を母体とする保守佐幕派の学校党に所属していましたが、明治3年に藩知事が交代すると実学党が要職を締めるようになり、この煽りを受けて池辺も失職してしまいます。職を失った池辺は熊本を離れ西北にある横島に私塾を開きました。

自らも田畑を耕しながら地域の青少年の教育にあたる隠棲の日々が始まります。やがて池辺を慕って熊本からも学びに来る者が出始め、同じく政府の職を辞して鹿児島で私塾を開いた西郷隆盛に比して「肥後の西郷」と後日呼ばれるほどの声望を得ました。

池辺の挙兵と誤算

池辺が横島で隠棲している間にも、新政府の西洋化政策と士族階級への特権はく奪政策は急速に進み、これに伴い生活の基盤と武士の誇りを奪われていく士族階級の不満は増大していきました。明治9年、遂に熊本で不平士族による神風連の乱が勃発しますが、学校党のリーダーと目されるようになっていた池辺はこの時には軽挙を戒めています。彼がこの時なぜ決起しなかったのかは謎ですが、政府軍の力を冷静に分析した結果かもしれませんし、神風連の主体が自派とは違う敬神党だったからかもしれません。

いずれにせよ池辺率いる学校党は決起せず、熊本鎮台幹部にかなりの打撃を与えた神風連もわずか一日で鎮圧されてしまいました。政府のやり方に不満を持ちつつも武力蜂起には慎重だった池辺が遂に起ったのは、翌明治10年の西南戦争の時でした。かねて西郷と連絡を取り合っていた教え子の佐々友房の強い勧めもあり、率兵上京してくる薩軍に呼応する事を池辺は決断します。池辺の呼びかけに集まったのは学校党を主体とする1500名にも上る人達で、これは西郷に協力した九州各地の部隊のうち最大の人数でした。

軍勢を整え北上して来る薩軍と合流した池辺ですが、その淡い勝利への期待は薩軍幹部の別府新祐晋介との最初の会話でもろくも打ち砕かれます。どのように熊本城を攻めるつもりかと問うた池辺に対して、別府は別に戦法などない、歯向かえば踏み潰すと言い放ったのです。薩軍には事実上何の戦術方針もない事をこの一言で悟った池辺は唖然としたと言います。いかに戦国時代の築城とはいえ自分が出仕していた熊本城がどれほどの堅城であるかは、池辺はよく知りぬいていたはずです。

その名城・熊本城を攻める策さえ持たない薩軍に勝機があるはずもない事を、彼は一瞬で理解したに違いありません。戦う前に負けが見えてしまった池辺ですが、しかしもはや後戻りする事は出来ず、旧藩主からの降伏勧告も拒絶して、最後は負傷し動けなくなった所を捕縛され、長崎で斬首されました。

※画像はイメージです。

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