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もっと評価されても良い筈の武将「今川義元」

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今川義元こと海道一の弓取りと謳われた、東海道の支配者として君臨し、駿河国と遠江国の両方を見事に収めていた守護大名として有名な人物でもありました。

またあの猛将で有名な武田信玄や、あの北条氏康とは義理の兄弟と、戦場においても恐れられている百戦錬磨の人物でもあったのです。
彼の政治手話は実に見事で、寄親や寄子制度を設けた人物でもあり、また合理的な軍事改革等などの国力増加を行い、また収めていた領国の政治経営を外交ともに成功させました。

外征面においても様々な才覚を発揮しは、今川氏を名家の一族として戦国大名の中でも強国へと転身させ、所領も駿河と遠江を治め、ついには三河と尾張にまで領土拡大へと向けて、戦国時代の統一の足掛かりを作ろうとしていた人物なのですが、彼の評価は、あの桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れた事で、最悪なモノとして扱われる事になったのです。

油断大敵の代名詞の武将と、織田信長の戦力を過小評価し、戦場の陣営で宴会をしてる隙を突かれて敗れてしまった、戦争の下手な間抜けな武将と、ひどい扱いを受ける事になってしまいます。

また第二次世界大戦時における日本の戦史研究においても、今川義元は戦が下手な人物として代名詞化されており、相手を過小評価すればこのようになるとひどい扱いを受ける事となります。

ただ本人に至っては元々は仏門の人であった為に、そのイメージが強くなってしまい、また彼は当時の戦の作法に関して真面目な人物だったとされ、まさか奇襲を行う卑劣な手を加えて来るとは思っておらず、織田信長の奇襲攻撃は、予想外の攻撃だったと、言い訳がましいですが、彼の常識の範疇を越える攻撃だった事も付け加えておきます。

この信長の奇襲は、当時においては斬新なものであり、また情報収集で少数精鋭で一気に攻撃すると、相手の虚を突いた攻撃は、疲弊していた今川軍に大打撃を与え、結果として今川義元は打ち取られ、戦国の勢力は織田信長によって書き換えられていく事になります。

本来なら悲劇に武将として扱われるべき存在なのですが、公家文化に精通していた穏やかな人物でもあった彼は、京都公家や僧侶などの交流を通して京都文化の流行を国内に取り入れ、また京都から逃れた公家や僧侶を優先的に保護していたなど、金持ち優遇のイメージが非常に強く残ってしまいました。

そのせいで間抜けな公家の太った男として扱われてしまう不遇を後世に遺してしまった今川義元……彼の名誉はいつか回復するのかと、他の創作品を見ても、太った公家のお歯黒と白塗り化粧をした間抜けな小悪党扱いをされており、彼の評価が変わるのはまだ先の様ですね。

いば・よしあきと申します。
油断大敵を今川義元で学んだライターですが、宜しくお願い致します。

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