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悲劇の作戦へ至る戦略インパール作戦計画

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太平洋戦争でのインパール作戦から2024年で80年を迎えます。
インパール作戦は多くの戦死者を出し、失敗した日本軍の作戦として知られています。インパール作戦はどんな戦略から計画されたのでしょうか?

目次

ビルマを攻略した日本軍

太平洋戦争が開戦すると、日本軍は東南アジアにあるイギリスやオランダなどの植民地を占領して資源地帯を押さえました。
これと同時に、当時イギリスの領土であったビルマ(現在のミャンマー)へも進軍し、1942年(昭和17年)5月にはビルマ全土を制圧した。

日本軍はビルマを攻略する理由として、連合国による蒋介石の中国国民党を支援するルートを遮断する為としていた。
この目的は果たされ、連合国は空輸での蒋介石支援やインドからの支援ルートを作る事になります。
そして日本軍はビルマを手に入れた事で、イギリス領インドへ進軍できる可能性を得ました。

インドへの進撃を目論む

インドはイギリスがアジアで持つ最大の植民地である。
日本はインドを攻略する事でイギリスを屈服させる戦略を抱いていました。
このような戦略の中でインド独立の活動家であるスバス・チャンドラ・ボースを代表とした自由インド仮政府とインド国民軍を日本は作ります。

もしもインドへの日本軍進軍となれば、ボースがインド人達へ独立の為に立ち上がるように呼びかけ、独立に燃えるインド人達と共にインドからイギリス軍を撃退する様になればと日本軍は望みを持っていたでしょう。
日本軍はビルマ攻略が完了した直後にインド東部への進撃を計画しますが、ビルマの防衛態勢を固めるべきと言う現地からの意見により延期を経て中止となりました。

防衛の為に打って出る

日本軍がビルマを攻略した後も乾季に連合国軍が反撃に出ていました。
イギリス軍とのアキャブでの戦い、中国軍とのフーコンでの戦い、ウィンゲート准将による後方攪乱作戦が展開され、ビルマの日本軍は守りに徹していました。
連合国軍による圧力を受ける中で、ビルマの日本軍内でインドへの進撃論が浮上します。

これは第十五軍司令官である牟田口廉也中将からであった。
牟田口は連合国軍が本格的な反撃に出る前に、ビルマ西部を流れるチンドウィン河の西に防衛線を進めたいとまず提案、この提案をきっかけに牟田口はインド東部のアッサム州へ進撃する大作戦を唱えるようにもなる。
大本営や南方軍はアッサム州進撃は無理であるとし、牟田口の提案はビルマの国境から近いインパールとコヒマの攻略に修正された。

こうしてインド侵攻作戦は中止を経て、牟田口のアッサム州攻略構想になり、そこからビルマとインドの国境にあるアラカン山脈の防衛線を強化するインパールへ攻め込むインパール作戦へと変容したのです。
インパール作戦は以前からあったインド侵攻計画がその下地としてあったのです。

featured image:Imperial Japanese Army, Public domain, via Wikimedia Commons

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