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ローマへ進軍せよ!イタリア戦線の戦い

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1943年の第二次世界大戦で新たな戦場となったイタリア
イタリア政府はムッソリーニを政権から降ろして連合国軍と休戦を結びますが、ドイツは軍はイタリア国内での戦いを続けます。

目次

ムッソリーニ救出作戦

イタリアの政変と連合国との単独休戦と言う事態にドイツ軍は動揺せず、連合国軍と交戦し、イタリア軍の武装解除を進めました。
イタリア戦線の最前線であるイタリア南部防衛はアルベルト・ケッセルリンク空軍元帥が総指揮を執る事が決まります。
ドイツは共に戦うイタリアの存在を求めていました。
そこで、幽閉されているムッソリーニを救出する作戦が実行された。

オットー・スコルツェニー大尉が率いる武装親衛隊の特殊部隊が、イタリア中部の山間部にあるホテルで幽閉されていたムッソリーニの救出に成功した。
ドイツに助けられたムッソリーニは、9月18日にイタリア北部にイタリア社会共和国を建国しドイツと共に連合国との戦いを続けます。
しかし、このムッソリーニの新しい国はもはやドイツの傀儡国家に過ぎなかった。

連合国軍アンツィオ上陸

イタリア南部の戦線はケッセルリンクによる四重の防衛線が敷かれた。
連合国軍はこの防衛線で思う様に進撃ができません。
半島の中央から広がる山間部が戦車や装甲車で押し通る攻めよりも、地形を利用して待ち伏せて守る側に有利でした。
連合国軍は1944年1月にイタリア西部のアンツィオに上陸する。

このアンツィオはイタリアの首都ローマまで60kmの地点だ。ローマ解放を目的にしている連合国軍にとってはローマの目の前に進軍した形となる。
対するケッセルリンクはヘルマンゲーリング装甲師団や第4降下猟兵師団などのドイツ軍を送り込み、アンツィオの連合国軍を抑え込もうとした。
28センチ列車砲も投入されたドイツ軍の防衛線を連合国軍は突破できず、アンツィオの戦いは5月下旬まで続く。

モンテカッシーノの戦い

アンツィオでの戦いと同じ頃、イタリア中部の山間部にあるカッシーノでも戦闘が繰り広げられていました。
アンツィオ上陸作戦と連動して行われたイタリア南部戦線での連合国の攻勢でしたが、ドイツ軍はアンツィオ上陸作戦を受けても南部戦線の防衛を手薄にする事は無かった。
苦戦をしながらも連合国軍は前進を続け、戦闘の焦点はモンテ・カッシーノと言う岩山にある修道院に移ります。
標高519mの山にある修道院は周囲を見渡すには良い位置だった為に、戦いの焦点となってしまった。
軍事的な価値が高い修道院は連合国軍の爆撃で破壊され、その廃墟にドイツ軍の第1降下猟兵師団が陣取り激戦地となった。

修道院の戦いは3月から5月にかけて続き、ドイツ降下猟兵は連合国軍の攻撃に耐えた。
5月17日にドイツ軍が新たな防衛線へ退くのと同じくして、降下猟兵はモンテ・カッシーノから撤収する。
連合国軍は6月2日にようやくローマを解放した。
重要な戦略目標を連合国軍は達成できたものの、ケッセルリンクが指揮するドイツ軍は撤退が出来た事で健在のままです。

イタリア戦線の戦いはドイツ降伏まで続く事となります。

featured image:Department of Defense. Department of the Army. Office of the Chief Signal Officer., Public domain, via Wikimedia Commons

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