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全国各地を統べていた出雲王朝

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古代日本、現在通説とされているのは、天照大神の子孫神武が九州から大和を東征し大和王朝を建て、飛鳥時代に東北をも征服して日本全土を領有したというのが記紀からも読める歴史である。

しかし、影に隠れた出雲王朝の神を祀る神社も多く、古事記の上巻の3分の1は出雲王朝の話である。
決定的となった神話、島根県出雲での国譲りの話も本当のところは隠されたのではないか?

目次

出雲王朝とは

本来の古代出雲は、弥生時代から古墳時代にかけ現在の島根県・鳥取県の出雲平野・安来平野を中心にあった文化を指す。

この地域は、遺跡や古墳も多く青銅器や、銅剣が多く発掘された。
このことから、大きな文明がそこにあったのは間違いなく、日本の各地でも有数の強大勢力だったことは間違いない。
また、争いがあった形跡のある人骨も出土しており、記紀の中でも「スサノオとヤマタノオロチ」・「因幡の白兎」・「大国主の国譲り」と、天皇家の譜系を示す記紀の中でこれほどまでに、譲る方の敗北者ともとられる民族の話があるのはなぜなのか謎が残る。

出雲口伝での出雲王朝

口伝と聞けば、竹内文書や宮下文書を思い出す人は多くいるだろう。
しかし、出雲王朝の末裔である富家が出雲口伝と言うものを残しているのをご存じであろうか?

ここに最初に出てくるのはクナトノ大神。
クナトノ大神は出雲人を連れユーラシア大陸の戦乱・もしくは氷河期を避けるように東に流れ津軽にたどり着き、現地人と交わり鉄・織物・農耕の方法を伝え、争いは無かったという。
出雲の人々は、クナトノ大神の妻、「幸の神」(賽の神)、子を猿田彦(サルタヒコ)と呼んだ。
人々はクナトノ大神に自然とついてきて、王となった。
数世代にわたって善政を布いた出雲王朝は、日本の東西長くに渡り王となったため、その王の名を「オオナモチ」(オオナムチ)と呼ぶことにした。

オオナムチは、記紀では大国主と言われ、名をいくつも持っている神である。
日本列島は南北に長いため、統制管轄を二つの皇子に分け、それぞれの氏から交代で王を出した。それが、オオナモチとスクナヒコナだったという。

スサノオの出現

そのような平和は長く続かなかった。
そこに、中国大陸から朝鮮を経てやってきた集団があり、それをスサノオと呼んだ。
違う文献には、「ニギハヤヒ」や「アメノホアカリ」だという説もある。
高志の国で暴れた賊がありこれをスサノオが退治したため、テナヅチの娘を娶った。
スサノオは我が物顔で出雲を我が物顔で歩いたという。

次は、ホヒ族が手引きした天孫族が攻めて来て、大国主・事代主という二人の王を殺害した。
事代主神の子とされるミナカタノトミノミコトはゲリラ戦を布いたが圧され、越の国まで後退し越と信濃で第2の出雲王朝を建てたという。

次には、神武が攻めて来て、「カラの子」と呼んでいた渡来人の八咫烏が神武に付き、出雲人を残酷に殺していった。
出雲王のトミノナガスネヒコは傷つき、大和を譲り出雲に退きそこで亡くなり、神武は大和橿原で即位し天皇となった。

ざっくりとしたが、こういう話である。
まことにすぐには信じられない話であるが、かなり信ぴょう性もあり、消された日本の歴史を垣間見ることができた気がする。

※画像はイメージです。

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