80年前の決意しなかった戦争~日本の対ソ連開戦~

2021年は太平洋戦争開戦から80年になります。
日中戦争を戦いながらアメリカやイギリスと開戦し、破滅に向かう大きな節目の時になりました。
その80年前に、日本はソ連との開戦をどうするか迷ってもいました。

目次

ドイツのソ連侵攻

1941年6月22日にドイツ軍がソ連に侵攻して独ソ戦が勃発します。
日本は前年に日独伊三国同盟を結んでいた事から6月の末にはドイツから参戦の要請が来ます。
しかし、日本では陸軍内でソ連と戦う「北進派」と、ドイツが欧州を支配した事で南方のオランダやフランスの植民地と資源を獲得する「南進派」に分かれていました。

7月2日の御前会議では北進と南進のどちらも準備すると言う方針になり、ソ連との開戦は「独ソ戦の推移が帝国の為に優位に推移すれば」と言う日本にとって良い状況なら開戦すると言う前提も決まります。○関東軍特種演習
日本の方針が消極的ながらもソ連との開戦を準備するとなりました。
満州にあってソ連軍と向かい合う関東軍は演習と言う名目で人や物を準備する「関東軍特種演習(略して関特演)」を行います。

この関特演で日本本土から2個師団が関東軍へ増強され、支援部隊や関東軍の全師団を戦時の完全に充実させた状態にすべく、50万人の人員に15万匹の軍馬が満州へ送られます。
こうして関東軍は35万人から85万人に増強されました。燃料や弾薬などの物資も大量に用意され開戦への準備は着々と進みます。
予定では8月10日に開戦が決意される筈でしたが、8月9日に北進の方針を取り下げ、南進を重視する決定がされます。

もしも開戦していたら

独ソ戦の推移はドイツが有利でしたが、8月上旬ではキエフまでドイツ軍は進んでおらず、日本から見ればソ連が屈服されるように見えませんでした。
またソ連軍は関東軍と向かい合う極東軍の兵力を減らす事はありませんでした。

この極東ソ連軍が少なくなる事を日本は開戦に踏み切る前提にしていました。
陸軍内部では極東ソ連軍の兵力が少なくるのを待つ「熟柿(じゅくし)主義」と極東ソ連軍が減らなくても開戦をしたい「渋柿(じゅうし)主義」に分かれていました。

開戦の決心を固めなかった理由の一つです。
何より南方への軍事行動(南部仏印進駐)でアメリカとの関係悪化と言う事態が起きて、日本はソ連と戦う余裕がなくなり12月の太平洋戦争開戦に至ります。

もしも日本がソ連との開戦をしていたらどうなっていたか?
日本軍の作戦ではウラジオストクを攻略し、バイカル湖方面で極東ソ連軍と決戦すると言うものでした。
しかし関特演で85万人に増えた関東軍であっても1937年から20個師団以上を配備し、1942年7月でも145万人の将兵と2500両以上の戦車や自走砲を持つ極東ソ連軍に勝てる見込みは低くく、史実よりも早く満州にソ連軍が侵攻していたかもしれません。

(参考資料)
欧州戦史シリーズVOL.15「ソヴィエト赤軍興亡史Ⅱ(大祖国戦争前編)」Gakken
「最後の参謀総長梅津美治郎」岩井秀一郎著 祥伝社新書

※画像はイメージです。

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コメント一覧 (1件)

  • モスクワ作戦で日本とドイツが挟撃するという前提であれば、モスクワを中心とする輸送網を構築しているソ連にとって大変痛手であり、ソ連の生産体制を分断でき反抗する機会を激減させることができると思う。ドイツのモスクワ占領時に、日本が同時に攻め込めば、極東に展開する部隊をモスクワ方面に送ることができず、モスクワはドイツ軍が早期に占領していた可能性がある。スターリンはモスクワを離れることで追い詰められることになり、日本軍優位に傾いた可能性は十分あると思う

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