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人々を救った、おじいちゃんとおばあちゃん

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おばあちゃんが亡くなる前に聞いた話です。
太平洋戦争中から終戦になっても、おばあちゃんは、ある商社で電話交換手をしておりました。
おじいちゃんは何故か分からないのですが、兵役を間逃れて日本に留まっておりました。

おばあちゃんの通う商社は戦後まもなくでも、情報収集や食材(米・塩等)の管理などでとても忙しかったそうです。
その会社で、おばあちゃんは電話交換手の仕事をしていました。
当時の電話交換手は電話交換台に座り、全て手動で発呼者側・着信側の電話ケーブルプラグをそれぞれのジャックに差し込み、電話を繋ぐ仕事です。
電話交換手の仕事柄、おばあちゃんは外線・部署内の全ての情報を把握しておりました。

おじいちゃんは普段運転手の仕事をしていたのですが、暇さえあれば会社の近くでウロウロしながら、おばあちゃんからの情報を待ち構えています。

そして、ある情報が入ると外のお爺さんをみつけて伝えます。
それは・・・「今度いついつに、神戸港にお米と塩が入るよ」。

そうするとおじいちゃんは、神戸港に向かいます。
神戸港では、米国兵にこそっと賄賂を渡して大量の米と塩をゲット。
それから家路へと向かいう途中、今で言う神戸高速鉄道新開地駅の線路に持っていた大量の米と塩が入った袋を投げるのです。
おじいちゃんを待っていた近所の人々は、中に入って袋の争奪戦がはじまります。
そのおかげで、家族とご近所の方を助けたおじいちゃんは、後々まで感謝されました。

戦時中、空襲後にたくさんの焼き焦げた遺体があって心が痛んだ事でしょう。
だからこそ、気持ちを切り替えて、生きている家族や周りの人達を必死に助けたのだと思います。
少しズルをしていますが、多くの人々を救う結果になったのです。
戦争中やその後の苦しいな時代でも、皆で助け合って分け合う精神が日本人だなと思います。

現在、個人主義の時代になってしまいましたが、困った時はお互い様の精神を祖父・祖母は教えてくれました。
亡くなるまで、誰に対しても優しい祖父と祖母でした。そして連携プレーをした祖父と祖母は、ユニークで誇りに思います。

当時の人々の事を、忘れずに生きていこうと思います。

※画像はイメージです。

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