お地蔵様は、慈悲深い菩薩様として有名だが、時として「バチを当てられた」とする説がある。
曰く、疫病の鎮魂のために立てた地蔵に手を合わせると、同じ病の症状が現れた。
そのままダムの底に沈めたために、工事に携わった者の家が洪水で浸水した。
子供と遊んでいたお地蔵様を引き離したら凶作になった・・・ などなど、虚実の入り交じった話が出て来る。
具体的なエピソードでなくとも、本来撫でて拝むべきお地蔵様を叩いたり割ったりはし難いだろう。
地蔵菩薩とは?
菩薩は、力はあるがまだ解脱をして仏になっていない修行者である。
解脱とは、輪廻転生から脱し、永遠の存在となるものと考えるのが分かりやすい。どんなにパワーのある存在であっても、仏にならぬ限りいつかは必ず死に、次のものに転生しなければならない。
菩薩のアイコンとしては、現世の未練が残っているものとしてその衣裳は華美に表現される。
例えば弥勒菩薩は、ブッダの入滅後56億7千万後に次の仏になる運命の菩薩である。まだ仏ではない修行中の存在であり、典型的な菩薩と言えるだろう。
だが、地蔵菩薩の場合、少々事情が異なる。 地蔵菩薩は本人がその気になれば仏になれる。閻魔大王とも同一視される事から、仏との差は紙一重よりも薄い。
だが、現世にあり続けるために、菩薩である事を選んだ存在なのだ。
ゲームで例えるなら、ゲームクリア後の勇者が神に比類する力を得て、神に迎え入れられようとしたが、「人間でなくなれば、個々の人の苦しみが見えなくなる。俺は人間の目線で人々を救いたい」と言って、旅を続けるようなものだ。相当ヒロイックな、格好いい存在と考えて良い。この分かりやすいヒーロー性故に、地蔵は愛されているのだ。
そんな地蔵が、多少自分の偶像をどうこうされたところで怒る事はない。
地蔵は祟る?祟らない?
では、そんな地蔵が「祟る」のはどういう時だろうか。
可能性の1つは、地蔵が守ろうとしているものを害そうとした場合だ。全ての人を救いたいが、人を害そうとしている人まで救っては、結局より多くの人が苦しむ。
仏ならば、全ての人が苦しまない完璧な結論を出す。それはすなわち欲からの開放「成仏」であり、そこにしか救いはない。だから、直接的に悪人を成敗するような事はない。成仏への道筋を示すだけで、そこに悪人と善人の差すらない。だが、地蔵は菩薩であるが故に不完全だ。完璧ではないが故に、人間的な判断が可能だ。
次に、地蔵自体が祟る訳ではない場合が考えられる。
地蔵は彼我の境界を守る者でもある。地蔵は六地蔵の姿を取る事があるが、三界六道の六道全てを見張り、境界を守っている。当然、災厄と人々の暮らす場の境界も例外ではない。大きな災厄で汚れた地、恨みの渦巻く場所、交わるべきでない様々なものの境界に地蔵は丈夫な石地蔵として永遠の防護を期待され設置される。
その地蔵を破壊したらどうなるか。地蔵は何もせずとも、災厄や恨みの瘴気が溢れ出し、人に障りを起こすのは当然だ。
この時、地蔵に詫びても状況は改善しない。地蔵がもたらした災厄ではない。行うべきは、新たな地蔵を建て直すべきなのだ。
地蔵と人
いずれの場合も、人の悪しき行為に伴い起こる不幸であるが、無知によっても起こり得るだろう。多くの場合、知る事は恐怖を和らげる。
オカルトにより人を欺く者は、恐怖を利用する。地蔵や大往生した筈の先祖など、祟らぬものを祟ると言って人を欺く。
地蔵を知り、その心を理解する事で、己の行動を見つめ直す事が出来れば、徒に地蔵を恐れる事はないだろう。
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