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本当はみんな攘夷派だった

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攘夷には二つの種類がありました。

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明治維新の分かりにくさ

攘夷派と開国派の争いというのが、よく知られている明治維新の対立構図です。
例えばある時期、尊王攘夷を信奉する長州が朝廷を取り込んで、攘夷を強行しようとしました。
これはペリー来航以来、幕府の進める開国政策を止めさせるためでした。

しかし佐幕の薩摩と会津を中心とする幕府軍は、武力で長州を追い出し、その後二度にわたって長州征伐を敢行します。
ところが二年後の鳥羽伏見の戦いでは、薩長中心の討幕派と、幕軍および会津など佐幕藩が敵対しています。

また、これら戦役で長州は、攘夷するべき外国から新式ミニエー銃を大量に購入していました。
佐幕のはずの薩摩が攘夷派と協同し、攘夷派の長州が開国の活動を行っている。
この辺りが維新の分かりにくい所なのでしょう。

本当はみんな攘夷派だった

外国との交流を断絶し、日本に外国人を一切入れないという主張が攘夷です。
この攘夷を全うするために武力行使も厭わない、というのが純粋な攘夷論で、原理主義的攘夷といえるでしょう。

しかし外国情勢に詳しい一部の藩主や学者、幕府要人などは、国力の差により即時の攘夷が不可能であると考えていました。
なぜなら強硬策で攘夷を断行すると敗戦必至で、西洋列強国の支配を許すからです。
だから先ず開国して西洋の進んだ技術を取り入れ、国力を充実させなければならないとしました。
これが開国派です。

開国派の当面の目的は国力の増大としながら、その最終目的は西洋列強国の支配を許さないことにありました。
司馬遼太郎氏はそんな攘夷を開明的攘夷と名付けました。

思想的と現実的の違いはあるものの、日本の独立を守るという意味では同じく攘夷だといえます。
こう見ていくと、完全な開国論者は極少数で、当時の日本人のほとんどが攘夷論者だったのです。

太平洋戦争まで続いた攘夷。

明治政府は殖産興業、富国強兵をスローガンに、攘夷など忘れたかの様に西洋の文化技術を大幅に導入します。
その最終目的は、江戸幕府が結ばされた外国との不平等条約の改正で、外国の不当な圧力の排除という意味では攘夷と言えます。

その後、急成長で国力を増した日本は、大国の清やロシアに戦勝し、名実ともに攘夷を果たしました。
しかしその攘夷思想は、西洋勢力からのアジア解放、大東亜共栄圏という形で膨張を続けました。
その行き着く所は大日本帝国の滅亡で、明治維新以来、営々と続いてきた維新は、ここにやっと終わりを告げました。

戦後日本人は完全無比な開国派となりましたが、今再び攘夷の必要性が高まっています。

歴史大好きじいさんです。
明治維新の動きって分かりにくいです。

参照:花神 司馬遼太郎著
※画像はイメージです。

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