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攘夷は目的から手段へと変質した?

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攘夷・・・この思想が幕末の複雑な世の動きを理解する鍵です。
それでは攘夷とは何か?考えていきましょう。

目次

攘夷とは

歴史好きの人なら、攘夷とは日本に開国を迫る外国を断固排斥して、天皇の清らかな国土と人民を守ろう、という考え方なのは知っているでしょう。
断固とは、もしその外国が武力を背景にして侵入してくるのなら、こちらも刀にかけて彼らを追い払うという決意の表れです。

二百数十年間、鎖国していた当時日本では、外国人を見たことのある人は、長崎出島に出入りしている役人や商人などほんの一部です。
ましてや欧米列強の強大な国力と武力について知識のある日本人など皆無に等しい状況でした。
だからアメリカやロシアなどが蒸気船で半ば押し入る形で来日すると、現実無視の精神論として、純粋攘夷論が武士階級のなかで沸騰しました。

攘夷の変遷

それでは時代が進むにつれて変化していった「攘夷」の変遷について説明していきます。

1.初期

幕末動乱の初期は、精神論的純粋攘夷論を掲げる攘夷勢力が、外国に押されるように開国へと向かい始める幕府と対立しました。
つまり刀槍や弓による外国の撃退を本気で目指していました。
長州・吉田松陰などはこの純粋攘夷思想を広めた人で、木戸孝允、高杉晋作、山形有朋、伊藤博文といった長州の中心人物は、若い頃に何かしら松陰の影響を受けています。
高杉晋作、伊藤博文らは、英国公使館焼き討ちを実行するようなバリバリの純粋攘夷論者でした。

2.中期

純粋攘夷論に則って、長州は馬関海峡(現・関門海峡)を通る外国船を砲撃し、その報復に襲来した英仏蘭米四か国艦隊に敗れます。
また薩摩藩主の行列の前を馬上横断した英国人の無礼討ちに端を発した薩英戦争もありました。

これら戦争によりこの両藩は列強の国力と軍事力を身をもって体験し、その結果、純粋攘夷論に基づいただけの攘夷は、現実的には不可能だと悟るのです。

3.後期

純粋攘夷論の雄だった長州は180度転換して英国と結び、西洋流の軍備軍制を積極的に導入し始めます。
つまりこれはそれまで幕府が進めていた、まさに開国に他なりません。
しかし以後も長州は表向きは攘夷を推し進めていきます。

攘夷の変質

行動の実質は開国なのに、旗印は攘夷。ここが幕末の流れを理解し難くする要因の一つです。
純粋な攘夷は今すぐ外国を追い払うことでしたが、欧米列強の力を理解した長州は、それに伍する国力と軍事力をまず蓄えた後に、欧米に対抗するという長期計画に方針変更したのです。

しかし地方分権の幕藩体制ではそれは不可能で、国王を頂点とする国家体制の欧米諸国のように、日本も天皇親政の中央集権国家にならなければならないと長州は考えました。

討幕はその為に必要で、だから宿敵といわれる薩摩とも同盟を結びました。
討幕にはまとまった軍事力が不可欠で、即戦力としては使えるのが純粋攘夷勢力でした。
しかし開国による国力増強などは、薩長でもごく一部の指導層だけが理解できる高等長期戦略で、大多数の純粋攘論者たちの反発は必至です。
そこで尊王という旗印を全面に押し出すことで彼らを討幕に向かわせたのです。

討幕のための手段に変質

つまり外国を追い払うという目的であった攘夷は、この時点で討幕のための手段に変質しました。
そして純粋攘夷論者だった人々も、欧米式の兵器と兵制で勝ち進む過程で、欧米の力とその必要性を理解するようになり、なによりも欧米の風に馴染んでいきました。

最終的に薩長が中心となって打ち立てた明治政府は、殖産興業と富国強兵を国是とする積極開国政策をとります。
当初、攘夷の旗頭藩だった長州が、積極開国の明治新政府の根幹の一つになっているところに、幕末が分かりにくい原因があります。

歴史大好きじいさんです。
幕末動乱期の流れは理解が難しいです。

参考:世に棲む日日 司馬遼太郎著
※画像はイメージです。

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