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謙信を支え非業の死を遂げた猛将「柿崎景家」

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長尾家(上杉家)を代々支え続けた猛将「柿崎景家」とはどのような人物で、どのような人生を歩んだのか?
私的な感想を含めて考察していこうと思います。

目次

柿崎景家(かきざきかげいえ)とは何をした人?

上杉謙信の実父である長尾為景に仕え、その死後は息子の長尾晴景・長尾景虎(上杉謙信)と代々長尾家に仕えました。
あまり知られていないが、上杉謙信麾下筆頭の猛将と言っても過言ではないほどの人物です。

「越後の二天」「上杉家四天王」に数えられ、川中島の戦いでの活躍が特に語り継がれています。
第4次川中島の叩きで先鋒を務め、信玄の弟信繁を討ち取り、さらに山本勘助の首も景家の郎党があげたと言われています。
その猛将ぶりは、その名を聞いただけで逃げ出すものがいたほどだそうです。

Utagawa Kuniyoshi, Public domain, via Wikimedia Commons

どのような人物なのか

柿崎景家については、いくつも語り継がれています。

北越太平記「向かう所鉄をも通すべしと存ずるほどの者に候」
勇将録「智勇の陣将、勇驍の働、一世に七度あり」
北越難記「毎戦に強きを破り、堅きを摧(くだ)くの功、倫少なき猛将なり」
謙信記「柿崎和泉守景家大剛の将にて武功番数一番」

どの軍記を見ても、勇ましく戦場を駆け巡る猛将の姿が描かれています。

上杉謙信からは、「和泉守(=柿崎景家)に分別があれば、越後七郡に敵う者があろうか」と評価されていますが、実際には、武芸一辺倒の人物というわけではありません。
軍事に秀でているのはもちろんのことながら、内政や外交といった面でも上杉家の宿老として活躍していました。

謎の死

このように軍事でも内政でも活躍した柿崎景家でしたが、1574年以降、突如その名はどの記録にも出なくなってしまいます。
このことからこの時期に死去したであろうことは推測されますが、何故亡くなったのかについては不明です。
ただ普通に病死したとも言われている一方で、上杉謙信により誅殺されたのではないかとも言われています。

誅殺されたとされる理由としては、織田信長との内通を上杉謙信に疑われ、主君である上杉謙信に誅殺されたというものです。もしこれが本当だとしたら、実際に内通をしていたのか、はたまた疑われたけれど無実だったのか気になります。

内通を疑われたとされるきっかけというのは、1575年に上杉家の馬を預かっていた柿崎景家が、要らない馬を処分をしようと馬を売り出しに行ったことから始まります。そのことを聞きつけた織田信長が馬を高値で買い取ってその礼を柿崎景家に送り、そのやりとりについて柿崎景家が上杉謙信に報告しなかったため内通を疑われたという説があり、このことが原因で死を命じられ、切腹したとされます。

もしこれが本当であれば、代々仕え続けてきた猛将の最期としては悲しい結末と言えるでしょう。

featured image:Utagawa Kuniyoshi, Public domain, via Wikimedia Commons

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