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「菅野デストロイヤー」大日本帝国海軍のエースパイロット菅野直の生涯

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ミリタリーマニアであれば「日本の撃墜王」と聞けば、旧帝国海軍で自己申告数ではあるものの202機を数える岩本徹三や、同64機の坂井三郎などを真っ先に思い浮かべる方が多いのではないだろうか。

彼ら2人は太平洋戦争を生き抜き、戦後には各々が自らの戦闘機乗りとしての体験を綴った著作を残している事からも、一般への知名度も高いものと思われるが、旧帝国海軍には忘れてはならない撃墜王がいる。
それこそが旧帝国海軍において公式に総撃墜数72機(個人48機・共同24機の合算)を認定された菅野直であり、その戦果は守勢となった太平洋戦争後期で正に「日本の撃墜王」と呼ぶに相応しい数字であろう。

菅野直は飛行学生であった訓練生時には「菅野デストロイヤー」、その後の実戦ではアメリカ軍から「イエローファイター」の異名を得たが、そこに至る破天荒な逸話を見ていきたい。

目次

成績優秀な短歌サークルを主催する少年から、旧帝国海軍士官へと進んだ菅野直

1921年生まれの菅野直は喧嘩も強いが勉学にも優れた少年で、中学高時代には石川啄木を好み短歌サークルを仲間と主宰するなど、非凡な才能の片鱗を見せていたが、陸軍士官学校と海軍兵学校を受験し軍人の道へ進む。
ここで海軍兵学校にのみに合格した菅野直は、1938年(昭和13年)12月に同校へ第70期生として入校、2年後の1941年11月に卒業して少尉候補生となり、旧帝国海軍軍人としてのキャリアをスタートさせる。

菅野直は翌1942年6月に正式な少尉に任官すると同時に第38期飛行学生となり、これを1943年2月卒業、晴れて戦闘機乗りとなるがこの訓練生時に複数回の事故で機体を損壊させ「菅野デストロイヤー」と呼ばれた。
但しこの異名は単に搭乗機を壊した事を揶揄されたものでは無く、事故に遭遇しても持ち前の判断力と身体能力で自らは軽傷に留めている事への、周囲からのある種の畏敬の念が込められていたものと言えるだろう。

撮影者不明, Public domain, via Wikimedia Commons

撃墜王・菅野直の誕生 

こうして海軍の戦闘機パイロットとしての道を歩んだ菅野直だったが、飛行学校を卒業した時期が1943年2月と既に太平洋戦争初期の帝国海軍の攻勢期を過ぎていた事から実戦への参加はかなり遅かった。
それは1944年2月に第343海軍航空隊・通称「隼」部隊の分隊長となって以後の事であり、同年4月にミクロネシアのパラオに同隊を率いて進出、その地でアメリカ軍の大型爆撃機と対峙する事から始まった。

当時の大型爆撃機は敵戦闘を排除する為に自衛用の機銃を複数備えていたが、ここで菅野直はそれらの死角を突いた直上からの垂直急降下で迎撃する戦法を編み出して実践、多数の撃墜実績を挙げる。
ここで菅野直の搭乗機には黄色の縞模様が施されていた事から、敵であるアメリカ軍からは「イエローファイター」と呼ばれて畏怖され、敵味方問わずに自他ともに認める「撃墜王」となっていった。

その後、菅野直は1944年7月に第343海軍航空隊が一時解散となったため第201海軍航空隊戦闘201飛行隊へ移り、アメリカ軍のB-24爆撃機の迎撃に従事、ここでは艦上零式戦闘機でその任を果たす。
菅野直はB-24爆撃機の水平尾翼を自機の主翼を用いて破壊して撃墜、また得意の急降下戦法を駆使して、一度の戦闘で2機のB-24爆撃機を撃墜する等、類まれな飛行技能で戦果を重ねた。

また同年11月に菅野直らの戦闘機パイロットは、戦局の悪化に伴い九六式陸上攻撃機に収容されフィリピンのマニラに向かうが、その途上でアメリカ軍戦闘機の襲撃を受けた際、菅野直が操縦を代わり回避したと言う。
この逸話が果たして事実なのか否か、今では無論真偽のほどは定かではないが、菅野直の卓越した操縦技量を伺わせるものとして今に語り伝えられている。

復活した第343海軍航空隊・通称「剣」部隊で301飛行隊・新選組を率いた菅野直

菅野直は1944年12月に再編成されて復活した第343海軍航空隊において、301飛行隊の隊長となり、以後は搭乗機を紫電改に代えて日本本土に絨毯爆撃を加えようとするB-29大型爆撃機等との戦いに身を投じる。
因みにこの時の第343海軍航空隊の通称「剣」部隊と言う名称も、菅野直と同僚とが共同で公募に提案したものであり、旧帝国海軍虎の子の精鋭部隊とは言いつつ、熟練したパイロットは既に少数だったのが実情だ。

それでも翌年1945年3月、愛媛県の松山市上空でアメリカ軍爆撃機の迎撃に初出撃した「剣」部隊は、50機もの撃墜に成功、菅野直自身もこの空戦で1機を撃墜、自身も最終的には撃墜されるも生還を果たしている。
以後も本格化するB-29大型爆撃機による日本本土の空襲に対し、菅野直は自ら考案・実践した敵機の死角である直上からの急降下戦法で高い戦果を挙げるも、軍の一部からはその危険性を指摘する声もあったと言う。

いよいよ日本の配色も濃厚となっていた1945年8月1日、菅野直らの部隊は長崎県の大村基地を出撃、鹿児島県の屋久島西方の海上でB-24爆撃機と会敵、そのまま菅野直は帰らぬ人となった。
菅野直は最終の階級は大尉であったが、敗戦後の1945年9月20に8月1日の戦いでの戦死者に認定され中佐となった上で、旧帝国海軍より合計撃墜機数72機が正式に布告され、名実ともに「日本の撃墜王」となった。

■343空時代の菅野の愛機
撮影者不明, Public domain, via Wikimedia Commons

人気漫画「ドリフターズ」にも登場した菅野直

菅野直は実際の撃墜王としての存在としてだけではなく、平野耕太氏の人気漫画「ドリフターズ」に登場するなど、創作の世界にも顔を覗かせており、こちらでその存在を知った方も多いかも知れない。

「ドリフターズ」には日本の戦国武将の織田信長や島津豊久、幕末の新選組副長・土方歳三や、カルタゴのハンニバル、フランスのジャンヌ・ダルクなど古今東西の英傑達が登場するが、ここに菅野直も加わっている。
これは「日本の撃墜王」としての菅野直の実績も去る事ながら、意に添わぬ上官には従わず、また前述のように九六式陸上攻撃機を神業のような技量で操縦したと言うような破天荒な逸話が影響しているのだろう。

唯一無二の「日本の撃墜王」・菅野直

「日本の撃墜王」と言えば冒頭で挙げたように岩本徹三や坂井三郎の方がネームバリューは高いかも知れないが、これはやはり彼らが戦後まで生き延びて自らの経験を著作で世に問うと言う行動が出来た事が大きいだろう。
ただこうした著作物での自己主張は、ともすれば自分語りの自慢話のように捉えられる側面もあり、特に自己申告である撃墜機数については、眉唾なものとして却ってマイナスに映る可能性すらある。

しかし菅野直の合計72機と言う撃墜機数は、旧帝国海軍自体が認めた数字であり、且つその破天荒で痛快な人柄もあり、人気漫画のキャラクターに用いられるなど、まったくと言って良い程に色褪せていないと思える。

featured image:撮影者不明, Public domain, via Wikimedia Commons

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