あなたはからゆきんさをご存知ですか?からゆきさんとは日本の九州地方で使われていた呼称で、19世紀後半に東アジアや東南アジア、さらにはアフリカに渡った女性労働者をさします。
その多くは性産業に従事し、異国の地の娼婦として数奇な生涯を送り、歴史の闇に消えていきました。
今回はそんなからゆきさんの知られざる歴史や過酷な実態をご紹介していきます。
からゆきさんの語源は唐人屋敷
まず初めにからゆきさんの語源を説明します。からゆきさんとは「唐人屋敷」が発祥の言葉。
唐人屋敷とは鎖国政策の例外として、長崎に設置された中国人居住地区。徳川幕府が治めた時代はオランダ以外との貿易が厳しく制限されていましたが、日本の隣国に当たる中国・台湾・朝鮮の商人の出入りは、比較的緩和されていました。
逆に中国の方が倭寇を警戒していた為、日本にやってくるのは台湾や東南アジアの商人の方が多かったそうです。1635年にはキリスト教徒ではない条件付きで、中国人の長崎市内在住が許されています。
1684年以降、清朝の商船の来航が増えるのに伴い、密貿易とキリスト教の布教活動が増加。この事態を重く見た長崎奉行者は中国人の居住地を制限し、1688年、長崎郊外の十善寺郷・御薬園に唐人屋敷を建設。
そこは巨大な塀と堀に囲まれ、門前に番所を備えた約9400坪の土地で、2000人の中国人を収容できました。
敷地内には瓦葺き2階建ての長屋が約20軒連なり、毎晩のように宴会が開かれていたそうです。長崎商人が出入りを許されたのは屋敷入口の二の門までで、その奥には遊女しか入れませんでした。中国人の外出は唐寺参拝時のみ許可されたそうです。
からゆきさんとはこの唐人屋敷に雇われた日本人女性。多くは煮炊きや雑用をこなす女中でしたが、性欲処理を担当する娼婦も中には含まれました。
なおオランダ人が滞在する出島に赴く遊女は「紅毛行」、唐人屋敷へ赴く遊女は「唐人行」と呼び分けられ、明確に区別されています。
島原の遊女が世界に飛び出す
唐人屋敷の近くにはかの有名な島原遊郭が栄えていました。遊郭で働く女たちは、外国人の目に留まり、唐人屋敷に呼ばれた同僚を「からゆき」と呼びならわします。
長崎では江戸時代から東南アジアに出稼ぎに行く遊女がいました。しかし明治の初め頃まで、「からゆき」は男女両方に使われています。シベリア鉄道建設に携わった工夫やハワイ移民も、からゆきさんとひとまとめに呼ばれていたのです。その風潮が変わり始めたのは大正時代、からゆきさんは外国に渡った娼婦の呼称となります。
からゆきさんの多くは借金に喘ぐ貧困家庭出身。貧しい農村や漁村では年頃の娘たちが親に売られ、嬪夫(びんぷ)と呼ばれる女衒を介し、泣く泣く外国へ旅立っていきました。
売春に携わると事前に知らされた娘は少なく、「海外での奉公先を世話する」など、上手い言葉に騙された者が多かったそうです。嬪夫の中には多額の仲介料をせしめ、それを元手に自ら娼館経営に乗り出す者もいました。
業者に売り渡された娘たちは、劣悪な輸送船に押し込まれ、長い航海を経て外国へ運ばれます。船内は極めて劣悪な環境な上、娘たちは船底や船倉に監禁され、窒息死や餓死が絶えませんでした。
付け加えるなら、一直線に目的地に向かうことはまれ。娘たちの多くは中継地の香港・クアラルンプール・シンガポールに送られ、そこで性的奉仕の仕方を教え込まれ、各地の娼館に送られていったのです。
アジアからアフリカまで、からゆきさんの分布図
からゆきさんの出稼ぎ先は多種多様。現在判明しているだけでも中国・香港・満州・シンガポール・フィリピン・タイ・ボルネオ・インドネシア・シベリア・ハワイ・北米・アフリカ・オーストラリアにいたことがわかっています。
からゆきさんは日本政府が主導した移民政策にも関わっていました。
1860年代、ロシアのバイカル湖東岸に日本人の町が出来ました。当地の人口の過半数を占めたからゆきさんは、玄洋社や黒龍会のような国粋主義者の団体に、開拓者の士気を上げるアマゾン軍として褒めたたえられました。
からゆきさんが現地で稼いだ外貨を送金したことで、日清戦争・日露戦争の渦中で火の車だった、日本経済が潤ったのは事実です。故に政府はからゆきさんの活動を黙認し、裏で奨励さえしていました。
からゆきさんを取り巻く状況や待遇は地域ごとにやや異なります。
19世紀後半、北オーストラリアのサトウキビ農園や鉱山で働く為にメラネシア人・東南アジア人・中国人が移民してきました。肉体労働者の大半は男性でしたが、少数の日本人女性も含まれており、彼等に性的サービスを提供しました。これは少女たちを買い取った売春業者が、慰安婦として移民の居住地に送り込んだ為。
一方西オーストラリアに送り込まれたからゆきさんは、酒場や雑貨屋を切り盛りするなど、商売で生計を立てていました。彼女らの後ろ盾となったのが中国人や日本人の配偶者。マレー人やフィリピン人、ヨーロッパ人と結婚した人もいました。
1890年から1894年の4年間でシンガポールに売られたからゆきさんは3222人。日本の官僚だった佐藤氏曰く、資産家の高田徳次郎は香港経由でからゆきさんを売買しています。そのうち1人をマレー人が経営する床屋に50ポンド、2人を中国人に40ポンドで売り、1人を自分の妾にしました。
珍しいところではアフリカのタンザニアにもからゆきさんの痕跡が残っています。ザンジバル島の「からゆきさんの家」は、日露戦争終結間もない明治28年に、28人のからゆきさんが住んでいた館。現在は土産物屋に改装され、観光名所となっています。
一晩で49人も・・・からゆきさんの過酷な労働条件
1974年に公開された『サンダカン八番娼館』は熊井啓監督のドキュメント映画。
原作は1972年に出版された山崎朋子のノンフィクション、『サンダカン八番娼館-底辺女性史序章』で、嘗てからゆきさんとして海を渡った老女、北川サキへのインタビューで構成されています。
サンダンカンとはマレーシアを成すマレー諸島のうち、ボルネオ島サバ州にある都市の名前。太平洋戦争中は日本の占領下だった関係で、町並みは昭和の面影を色濃く残しています。
敗戦が目前に迫る1945年に、上官命令で未開のジャングルを行軍した日本兵士が8000人以上死亡し、残りが捕虜として囚われた「サンダカン死の行進」の舞台となった場所でもあります。
最終的な生存者はたった6名。当時の司令官・馬場正郎陸軍中将は作戦ミスの責任を問われ、BC級戦犯として処刑されました。
この都市には日本人が経営する働く娼館が9軒あり、そのすべてでからゆきさんが働いていました。娼館には一番から九番まで番号が振られていたといいます。
『サンダカン八番娼館』の記述曰く、当時の娼婦の取り分は50%。その稼ぎからさらに借金が25%差し引かれる為、娼婦たちは衣装代の捻出に苦しみ、一か月に最低20人の客をとらなければいけませんでした。フィリピン政府管轄下の衛生局では月1回の梅毒検査と淋病検査が実施されていた為、この費用も払わねばいけません。
上記の費用を全部払おうとしたら、月130人の相手をしなければ釣り合わないのです。
とはいえ、娼館が連日大入りだったわけではありません。それは大抵の娼館が港湾に位置した為。
大変なのは港に船が停まっている時で、この時期は港湾労働者が店に押しかけ、娼婦たちは寝る間もないほど酷使されます。
サンダンカンのからゆきさんが一日で経験した最多人数は49人。客1人あたりに与えられた時間は3分~5分程度で、別途延長料金が掛かりました。もちろん客の選り好みや休みは許されず、体を壊して亡くなる娼婦が大勢いました。
過酷すぎる労働環境に精神を病み、自殺を企てた娼婦が少なからずいたあたり、時代の流れに翻弄された悲哀が偲ばれます。
からゆきさんの歴史と実態
からゆきさんの歴史と実態をご紹介しました。1980年代に登場した「ジャパゆきさん」は、からゆきさんをもじった造語で、東南アジアから日本に出稼ぎにきた女性たちを意味します。
親が作った借金返済の義務を負い、騙される形で海外に売られたからゆきさんたちは、一体何を想っていたのでしょうか?
※画像はイメージです。
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