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日本最強の武将 加藤清正とは?

加藤清正は豊臣秀吉の親戚で、もともと小姓として仕えていました。彼は秀吉のためにさまざまな戦いにおいて活躍し、その武功が認められて賤ヶ岳の七本槍の一人として知られています。

戦国時代において猛将としていろいろな戦に参加しており、明や朝鮮連合軍からは日本軍において最強の武将として恐れられていたそうです。戦ではもちろん、築城や領地統治にもその才能を発揮しており、忠義の人として後世に語り継がれています。

目次

加藤清正とは?

清正(虎之助)は今の名古屋市において生まれ、彼の母親は秀吉の母親といとこでした。清正の母親は幼い頃から彼に学問を学ばせており、11歳になると清正は豊臣秀吉の小姓になります。小姓は主人の身の回りの雑用を行う仕事で、彼は最初の頃は見習いとして働いていましたが、しばらくすると武士になりました。当時豊臣秀吉は若手の人材育成に取り組んでおり、石田三成や福島正則なども同じような時期に小姓になっています。

加藤清正は秀吉や妻のねねから寵愛されており、体力や知力を持った少年だったので将来を期待されて育ちました。彼は中国遠征に参加することになり、敵である毛利氏は現在の岡山県において境目七城というたくさんの城を造っていました。冠山城の戦いにおいて、加藤清正は一番槍をあげており、敵の竹井将監との対決に勝っています。

敵の城を順調に落としていくのですが、その最中に本能寺の変が起こってしまい、豊臣秀吉は毛利氏と和睦することになりました。明智光秀を討伐するために急いで戻る中国大返しが行われ、加藤清正も秀吉に従います。山崎の戦いにおいて明智光秀の武将である近藤半助を亡き者することによって、秀吉は彼にますます信頼をおくようになりました。

賤ヶ岳の七本槍

加藤清正は備中・冠山城攻めにおいて敵の竹井将監を討ち取ったり、山崎の戦いでは近藤半助を倒すなどさまざまな武功をあげます。賤ヶ岳の戦いでにおいて敵の山路正国などを倒したことによって、豊臣秀吉からは賤ヶ岳の七本槍の一人として認められるようになりました。3,000石の領地を得ることができ、加藤清正の名前は全国に知れわたるようになります。

戦場では豪傑というイメージがある彼ですが、実は内政や財務などの才能も認められていました。豊臣秀吉が関白になると、加藤清正は主計頭になりこれは税収などを管理する役職になります。清正は領地の代官や税収業務といった内務的な業務を担当することになりました。豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康と石田三成が対立するようになり、全国を巻き込んだ関ヶ原の戦いが起こります。この時加藤清正は徳川家康の東軍についていました。

なぜ豊臣家側の石田三成につかなかったのか不思議に思いますが、実は豊臣秀吉の息子の秀頼を守りたかったと言われています。加藤清正の思惑には、徳川軍の武将として名前をあげておけば、負けた秀頼を守ることができる権力を蓄えることができるかもしれないと算段したとも言われています。彼は戦で実績をあげることに成功し、徳川家康からは肥後をもらうことになり大領主となりました。

二条城で徳川家康と秀頼の会見が行なわれると、秀吉の息子を護衛するために清正も参加します。暗殺するつもりではないのかとも言われましたが、徳川家康は秀頼に手を出すことはなく、加藤清正は主君の子供の命を守ることができました。

武芸だけでなく築城名人

加藤清正の場合武芸はもちろん、いろいろな才能を持つ人だったようです。清正は豊臣秀吉の命令で肥後隈本城に入ると、田麦の特産品化などを目指したり南蛮交易の決済に利用するなど農業行政において実績をあげていきました。治水や干拓などのいろいろな工事も行っており、商業政策を積極的に行っていきます。

加藤清正の行った用水路は今でも使われており、地元の人は清正公さんと言って慕われていたそうです。隈本城の改築も行っており、堅牢な城塞としてリニューアルされ、武者返しと呼ばれている石垣などが採用されています。加藤清正は城の名前を勇ましいという理由から隈本を熊本に変更し、熊本城は日本の名城の一つになっていて地元のランドマークになっています。彼は城造りにおいてその才能を発揮しており、その理由として子供の頃から築城工事を見学していたそうです。

10代の頃から安土城などが建築される現場を見学しており、熊本城の他にもいくつも名城を築き上げました。特に熊本城の造りには高い防衛力を持たしていて、敵の侵入を簡単には許しません。熊本城の防衛力が発揮されたのは西南戦争の時代で、西郷隆盛は熊本城を攻めましたが、その高い防衛力からなかなか城を落とすことができず、西郷隆盛は政府軍ではなく加藤清正に負けたと言ったそうです。

最後に

加藤清正は船内において病気になり、満49歳で亡くなりました。いろいろな噂があり、毒饅頭を食わされたなどというエピソードがありますが、死因は脳溢血だったようです。彼は家康と秀頼の会見を見て安心し、帰国する船の中で死去します。会見直後に亡くなっているので、徳川家康による毒殺などとも噂されました。

清正が亡くなった後、加藤忠広の時代に改易されます。改易は領地や屋敷などが没収されることで、その理由として普段の行ないが良くなかったり、徳川家光と仲が悪かった弟の忠長と懇意にしていたなどいろいろな説があります。

清正は主人であった秀吉への恩義を忘れなかった人物で、家康と秀頼との会見をセッティングしました。時代と共に豊臣から徳川へ権力が移ってからも、秀吉への忠義を忘れなかった人だったのでしょう。

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