地中海戦域の司令官である南方総軍司令官となったケッセルリンク空軍元帥
連合国軍によるイタリア上陸により調整役から戦線を指揮する司令官としての役目が主になります。
前回に引き続きケッセルリンク元帥のイタリア戦線についてです。
イタリア軍の武装解除
1943年9月8日にバドリオ政権によるイタリアと連合国の休戦成立はドイツにとってイタリアが連合国の勢力圏に入る事を意味しました。
また同盟関係が切れたイタリア軍は敵となりました。
ケッセルリンクはバドリオの降伏と休戦の宣言が発表された直後からドイツ軍によるイタリア軍の武装解除を命じました。
イタリア軍の武装解除はイタリア北部をロンメル将軍が指揮し南部をケッセルリンクが指揮しました。
たちまち80万人のイタリア軍が武装解除されバドリオとイタリア国王はローマからイタリア南東部のブリンディジに政府を移します。
イタリア軍の武装解除が完了するとロンメルはフランスに移りケッセルリンクが在イタリアのドイツ軍の三軍を指揮する総司令官としての権限が与えられます。
イタリアでの戦い方
一方で連合国軍はバドリオの休戦宣言に合わせてイタリア中部のアンツィオに上陸作戦を決行してローマを目指します。
しかしドイツ軍は数の劣勢を戦車部隊などの機動力に正確な砲撃により連合国軍を阻止します。
それを示すようにモンテカッシーノの戦いでは519mの岩山で5カ月も降下猟兵が軍団規模で攻める連合国軍を食い止めた。
連合国軍を食い止めて負傷
要所で健闘するドイツ軍でしたが連合国軍の圧倒的な戦力によりアンツィオやモンテカッシーノからも撤退します。
ケッセルリンクはローマを無防備都市に決めドイツ軍を撤収させると防衛線を北部のゴシックラインに移します。
ここで連合国軍の進軍を遅らせる事に成功したケッセルリンクでしたが1944年10月に乗っていた車が事故に遭い重傷を負います。
復帰したケッセルリンクは西部戦線を指揮する西方総軍司令官となりイタリアには戻りませんでした。
空軍元帥でありながらイタリア戦線の地上戦を上手く指揮できたのは陸軍将校でもあった経験と「微笑みアルベルト」と呼ばれる柔和な性格による良好な人間関係が作れた故かもしれません。
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