吉備真備の人生を考察

奈良時代の人物・吉備真備は生まれで生涯が決まる世にあって、朝廷の中枢を担う右大臣にまでのし上がった人物。
695年に備中国下道郡(岡山県倉敷市吉備町)に生まれています。
そして遣唐使として活躍し、日本に帰郷後は唐の代表的な兵法書を日本に持ち帰り、軍師の祖とされました。
そんな奈良時代にありながら、軍師の祖として数奇な運命をたどった吉備真備について解説します。

目次

吉備真備の生涯

吉備真備は695年の持統天皇の御代の時代に、備中国下道郡(岡山県倉敷市吉備町)で豪族下道家に生まれました。
そのため当初の名前は下道真備であり、52歳の時に功績により吉備真備と名乗るようになるのです。

父の下道圀勝は平城京の警備する仕事についており、決して身分が高い家ではありませんでした。
しかし真備は勉学に励んだために、大学に入学することに成功。
本来大学は官位が5位以上の中流以上の貴族でないとダメでしたが、才能を見込まれたために特別に入学が許可されたと考えられています。

大学卒業儀は従八位下という官位が与えられており、身分は低いですが通常は身分の高い子弟に官位を与えられるためいかに真備が優秀だったかがわかるのです。

22歳で遣唐使となる

そして22歳の時に遣唐使として、阿倍仲麻呂や玄昉らとともに唐にわたっています。
唐で学んだものは儒教・史書・陰陽五行説・音楽・兵法など多くの分野を学んだそうです。

特に兵学においては、「孫子の兵法」や諸葛亮の「石兵八陣」などを学んでおり、日本には中国の代表的兵法書の「六韜三略」を持ち帰っています。このことにより、吉備真備は「軍師の祖」と呼ばれているのです。

帰国後の昇進

735年の40歳の時に日本に帰国し、史書や書籍・武器や測量器など非常に貴重なものを持ち帰っています。
とても優秀な人材だったので時の玄宗皇帝が帰国を惜しんでいますが、玄昉とともに帰国しました。

帰国して3年後の738年には従五位下という一気に三位も昇進たのでした。
しかしあまりの出世の速さをねたむ者も当然おり、吉備真備と玄昉を追放すべきだとして740年に藤原広嗣が反乱を起こします。
結局藤原広嗣は処刑されますが、急速な台頭を快く思わない人がいることが露見したことになるのです。

東宮学士になるも左遷

741年に吉備真備は東宮学士に任じられると同時に従四位下・東宮大夫兼春宮学士に叙任。
皇太子・阿倍内親王に「漢書」や「礼記」を教えたといいます。

746年には下道の朝臣名から吉備朝臣姓に改正を許され、吉備地方の大豪族と認められることとなりました。
しかし藤原仲麻呂の時代となる747年、吉備野真備は春宮大夫から外され、750年に肥前守に左遷されてしまいます。

再び遣唐使として渡唐

752年には再び遣唐使に任命され、唐にわたっています。目的は高僧の召喚・対新羅対策・金の調達だったそうです。
吉備真備は翌年鑑真を連れて帰郷に成功。仏教界に多大な功績を残しました。
帰朝後は大宰府で政務を行い、唐の兵学を活かして対新羅政策の軍事改革を行っています。

刪定律令を編纂後に死去

764年に藤原仲麻呂の乱が起こると、称徳天皇側の追討軍を指揮。この時も唐で学んだ兵法を応用したといいます。
そして乱が収まった後は、右大臣に任命されており、学者が右大臣となったのは吉備真備と菅原道真のみです。
そして就任後は、養老律令の修正や追加を目的とした刪定律令の編集に従事。
769年に制定しています。

時代が変わり光仁天皇の御代になっても重宝されていた吉備真備ですが、高齢を理由に上奏文にて引退を希望。
何度か保留になるも、771年にようやく受理され隠居しています。
その後の生活は不明ですが、大和国か吉備国のどちらかで775年に81歳で死去しました。

吉備真備の生涯についてまとめ

ここまで吉備真備の人生を簡単にかいつまんで説明しましたが、吉備真備は自分の能力で国の上層部に登り詰めた人物です。
軍事にも多く貢献しており、九州で多くの足跡を残しています。

諸葛亮の兵法はナポレオンも読んだという有名は兵書であり、そんな先端の軍法を日本に持ちこんだのも真備の大きな特徴の一つといえるでしょう。生まれで人生が決まっていた時代。
自らの力で大往生の人生を遂げた吉備真備の人生を1人でも多くの人に知ってもらえたら幸いです。

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