鬼畜米と言われていたが

母は月島生まれの人なので、進駐軍という物をよく知っていました・・・

我が家は幸い空襲からも疎開によって、誰も死ぬことなく戦争を生き延びた・・・もしかしてそれなりにうまく行った家庭の方かもしれません。
疎開先の秩父から東京が真っ赤に燃えているときには、月島の家はもうだめだと諦めていたようです。しかし戻ってみると辛うじて家が残っていましたのでバラックに住むことなく、一応ぼろいけど残った家で暮らしていく事ができました。

しかし、敗戦国家には変わりありません。
祖母はこれからやってくる進駐軍に、それなりに不安はあったようです。ですが母の話からすると、俗に戦争中の鬼畜米という想像からはかけ離れ、非常にいい印象を持っていた事が解ります。

敗戦でお菓子もろくに食べられない子供たちも居たので、そうした子供にチョコやキャンデーを買ってくれるいい人達だったと言っていました。そこで米兵は鬼ではないとおもったらしいです。

俗にシュシューボーイという靴磨きの孤児なども、米兵の短靴を磨く仕事をしていました。その時母はみたところ、足は長いし、軍服を着ている米国の軍人さんが格好良く見えたらしいです。
それに比べて、門前仲町でアコーディオンを鳴らして物乞いしている元日本兵を見ていると、敗戦をしたのだと実感したそうです。

戦中は配給制でしたが、戦後も配給制が暫く続きました。今では埋め立てられた東京湾沿岸も当時は貴重な食糧源で、佃島は佃煮にが有名なとおりで東京湾からとれた小魚や海藻などを佃煮にして食べていました。しかし戦中から毎日おかずは佃煮ばかりなので、おばあさんは献立を蛇とかえるといつも言っていたそうです。

戦後すぐタクシーというのに乗れた経験があったようで、当時はルノータクシーというのに乗っていたようです。
ただ大抵乗るのはお金もちか、進駐軍が乗っかる事が多かったようで、そもそも車自体があまり走っていない状態でした。

どれも貧しい戦中、戦後という話なのですが今となっては懐かしい話のようです。
しかしそれは、家族が無事戦争を乗り切れたなのだからでしょう。
そういう意味では恵まれた戦争時代を幸いにして、私の母方の祖母は乗り切れたのかもしれません。

夏が終わってくれないかと思います。暑いの苦手
※画像はイメージです。
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