第二次世界大戦でドイツはソ連へ侵攻するバルバロッサ作戦を展開します。
その中でもソ連軍の大兵力を包囲するキエフ攻防戦はドイツ軍が行った最大の包囲戦となりました。
ヒトラーの指令
1941年6月22日に300万のドイツ軍はバルバロッサ作戦を開始します。
進撃は順調に進み7月29日にスモレンクスを占領します。
引き続きモスクワへの進撃となると思いきや、スモレンクス攻略に参加した第2装甲集団は南へ向かう事になります。
ヒトラーが次の作戦に向けて指令を出したのです。
その作戦はウクライナのキエフ攻略です。
ヒトラーは穀倉地帯であるウクライナの制圧を完全にするべく中央軍集団から戦車軍団である第2装甲集団を引き抜きました。
その第2装甲集団を率いるグデーリアン上級大将はキエフ攻略よりもモスクワ攻略を優先すべきだと反対しますがヒトラーの意志を変えられませんでした。
キエフ包囲戦
キエフはドイツ南方軍集団の担当地域です。
戦況ではオデッサを攻略中でありクリミアへ向けて前進中でもありました。
そうした中で要所であるキエフを攻略するのに戦車戦力がクライスト上級大将の第1装甲集団だけでは少なかったのです。
対するキエフのソ連軍は南西方面軍の150万もの兵力がキエフ周辺にありました。
しかし8月半ばにキエフより南にあるウマーニで10万人3個軍団のソ連軍がドイツ軍に包囲されて無力化された。
これにより南方軍集団はドニエプル河南岸から渡河する自由を得た。
9月になると第1装甲集団がドニエプル河を河し第2装甲集団は8月25日からキエフより北を流れるデスナ河を渡河します。
2つの装甲集団がキエフを守るソ連軍の背後に回ります。9月14日に2つの装甲集団が合流してソ連軍の背後を塞ぐ形が完成します。
キエフの前面には第6軍などが展開し包囲線を作ります。
スターリンはキエフ死守を命じますが9月17日にはキエフからの撤退を許可します。
しかし撤退には遅過ぎ包囲の中で60万以上のソ連軍将兵が捕虜となりました。
キエフは攻略すべきだったか
キエフ攻略に時間を割いた為にモスクワ攻略ができなかったと言われます。
しかしキエフのソ連軍を無力化しなければモスクワを攻撃する時に側面または背後から反撃される脅威になるでしょう。
補給が満足に届かない状況になっていたドイツ軍にあってはモスクワ以外でも激戦が起きるのは好ましいとは思えません。
ロシアと言う広い大地は300万のドイツ軍でも手に余ったのです。
eyecatch credit: The Why We Fight series was created by the US Army Pictorial Services; Maps were prepared by the US War Department. / Public domain
思った事を何でも!ネガティブOK!