1949年10月、中国人民解放軍は300隻の船を用意して中国国民党軍が陣取る金門島へ上陸する。
2万人の国民党軍はどう金門島を守ったのでしょうか?
中華人民共和国建国と台湾の蒋介石
1945年に日本の敗戦で第二次世界大戦が終結
日本が去った後の中国大陸では毛沢東の共産党と蒋介石の国民党の内戦が再開されます。
内戦は国民党が台湾へ逃れ、共産党が大陸を制覇した事で一つの区切りとなりました。
1949年10月1日に毛沢東は北京で中華人民共和国の建国を宣言します。
一方で蒋介石の国民党は戒厳令を敷いて、大量の国民党関係者と家族の移住に反発する台湾住民を抑えようとしていた。
こうした状況の中で毛沢東は共産党軍から改めた人民解放軍に新たな軍事作戦を準備させていました。
両軍の状況
大陸を制覇して中華人民共和国を建国した毛沢東でしたが、敵である蒋介石の国民党は台湾で健在です。
また、中華人民共和国を建国した時も大陸側に国民党軍が支配する地域があり、戦いが続いていた。
共産党軍もとい、人民解放軍は台湾に近い福建省の厦門島を10月17日に制圧し、次の目標を厦門島の隣にある金門島に定める。
この金門島へ上陸作戦をかけるにあたり、人民解放軍は2万人の兵力と300隻の船舶を集めた。
対する国民党軍は人民解放軍の金門島上陸に備えて戦力を強化していた。
金門島は厦門島を失った事で、大陸に近い国民党の拠点として大きな意味を持つようになっていた。
国民党軍は大陸から撤収した部隊をはじめ、台湾からの増援を加えて4万人が守備に就いていた。
この時に元日本陸軍の中将であった根本博が林保源の名で金門島守備軍司令官の補佐をしている。
金門島の攻防
1949年10月25日未明、翌日の夜に300隻の船で出発した人民解放軍は金門島の北西にある古寧頭に上陸した。
しかし、国民党軍は押し寄せる敵軍を察知して即座に砲撃を浴びせた。
苦戦を強いられた人民解放軍であったが、国民党軍の部隊を打ち破り内陸へと進む。
ところが、上陸部隊が乗って来た船舶が国民党軍に攻撃されてしまう。揚陸艦ではなく、民間人が持つ木造の船は次々に燃えた。
船を多く失った人民解放軍は翌日26日に500人しか金門島へ送れなかった。
更に人民解放軍にとって不利だったのは国民党軍に戦車があった事でした。
22両のM5A1軽戦車は、戦車を持たない人民解放軍を押し返し、追い込む。
10月27日の午前に残る人民解放軍の上陸部隊は降伏します。
この時の人民解放軍は海軍力や海上輸送能力に乏しく、金門島の対岸からの砲撃もあまり効果が無く、上陸した歩兵は国民党軍の戦車など十分な防衛の戦力に圧倒されたのです。
敵を撃退した国民党軍でしたが、今も続く台湾を巡る攻防の始まりとなる戦いになりました。
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