明治時代、イギリスが巡洋戦艦「インヴィシブル」を建造をします。
これで世界の装甲巡洋艦は旧式となってしまいました。
日本は技術で追いつこうと、イギリスに巡洋戦艦を発注します。
イギリスへの発注
「ドレッドノート」級戦艦と「インヴィシブル」級巡洋戦艦の建造を開始して、「ド級戦艦」の時代へと進めたイギリス
ようやく、戦艦を自国で建造できるようになったばかりの日本にとっては、大きな遅れになります。
明治時代の日本とイギリスは、日露戦争を前に同盟関係にありました。
更にイギリスとドイツの企業が日本へ軍艦建造についての売り込みをしていました。
こうした状況で、日本海軍はイギリスから技術導入をする道を選びます。
ドイツのアームストロング社とも提案を比較して、イギリスのビッカース社への発注する事となった。
イギリスでの建造開始
日本海軍はヴィッカース社との意見交換で、建造する戦艦について決めました。
- 主砲は14インチ砲を8門、副砲として6インチ砲を16門
- 基準排水量は2万6000トン
と決まった。
設計はヴィッカース社のジョージ・サーストン卿が主任となって進められた。
この日本向け新型艦建造に新技術が盛り込まれた。
特に主砲は当初は12インチ砲が採用されたものの、イギリスで開発されたばかりの14インチ(35.6センチ)主砲に変更された。
他国へ輸出される戦艦とはいえ、イギリスは新たな技術を使った。
これは新技術・新装備の実験台として輸出する艦艇を利用したのです。
明治44年(1911年)1月に「金剛」となる戦艦は起工、建造が始まりました。
日本での「金剛」型建造
大正2年(1913年)2月に「金剛」は竣工します。
大正元年に日本海軍は「戦艦に相当する火力の主砲を持つ、装甲巡洋艦を巡洋戦艦とする」と制定しました。
こうして「金剛」は日本海軍初の巡洋戦艦となりました。
日本海軍とヴィッカース社は1番艦の「金剛」はイギリスで作り、2番艦以降は日本で作る事を契約で決めていっました。
「金剛」建造の時に、日本から技術習得の技術者が送られていました。
イギリスで習得した技術で、2番艦「比叡」が明治44年11月から、横須賀海軍工廠で始まります。
3番艦の「霧島」に4番艦の「榛名」は民間の造船会社で明治45年に始まります。
日本での建造にあたり、ヴィッカース社は技術と資材の支援が行われました。その中で日本では独自の設計変更や資材などの国産化も図られました。
こうしてイギリスの技術を吸収して日本は、「ド級戦艦」を作る技術力を獲得する事ができました。
「金剛」型はまさに、日本での戦艦建造にとって大きな功績があったのです。
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