歴史に必ず裏表の顔がある様に、風光明媚な京の街にも、その華やかさとは裏腹の暗部があります。しかしまた、だからこそ歴史は興味深いのです。
師団街道
はんなりした京都を代表する街、祇園花街。
そのすぐ横を流れる鴨川左岸に沿って、川端通りを南へ行くと、七条通りを過ぎた辺りから通りの名が師団街道と変わり、伏見深草の街へと向かいます。
京の都に凡そ不似合いな”師団”の呼び名は、戦前、旧帝国陸軍第16師団がこの街にあった事に由来します。
第一・第二・第三軍道
師団街道が始まると同時に、鴨川がこの通りから離れて行くのに代わって、通りの東側に琵琶湖疎水の流れが暗渠から突如現れます。
疎水は師団街道と並走し、深草の街中で三本の橋を潜ります。
その橋は北から、第一、第二、第三軍道と今でも呼ばています。
深草一帯は、後で述べる様に第16師団関連施設が広範囲にあり、それら施設間の軍隊移動用に架けられた橋です。
中でも第二軍道のコンクリート製橋脚は現在もそのまま使われ、橋桁に刻まれた旧陸軍シンボルの星型・五芒星を見る事ができます。
旧師団司令部
京都聖母女学院本館は古色蒼然とした、しかしながら重厚な赤レンガの立派な洋風二階建ての建物で、東京駅とよく似た、女学園に相応しい凛とした美しさがあります。
この建物は元第16師団司令部庁舎で、当時のままの形で利用されています。(一般公開はされていませんが、正門から正面奥に見えます。)
また師団長・官舎も残っており、満州事変で名を馳せた石原莞爾も、一時期、師団長としてこの官舎に入っていました。
当時の軍関連施設が現存するのはここだけですが、深草全域に兵器支廠や練兵場、砲兵連隊などの軍施設が集まっていました。
現・龍谷大学キャンパスや隣接する警察学校はこの兵器支廠跡です。
またその南接する今の住宅街一帯には、当初飛行場としても使われた、広大な練兵場がありました。
京都伏見の今昔
師団街道や軍道など、今の京都に似つかわしくない呼称が残る程に、戦前戦中は、伏見は軍都の顔を併せ持っていました。
当時、正午になると練兵場で放たれる砲兵隊の空砲は、「お昼のドーン」と住民の時報替わりになっていました。
またこの街に生まれ育ったお婆さんは、軍施設のある辺りには危ないから近づかない様にいつも母親から注意されていて、兵隊さんが怖かったと物語っています。
京都観光に来る大勢の人には、きっと想像もできない伏見の過去ですが、軍司令部が女学園として生き続けているのを見るにつけ、沖縄問題も伏見の様に平和裏に解決できる事を願って止みません。
私は京都で仕事をしています。千年の都、京都は歴史の宝庫です。
※写真はイメージです。
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