第二次世界大戦中の1942年から1947年までの5年間、イギリスのロンドン大学では日本語の特別コースが設けられました。
ここでは648人が日本語の特訓を受けて、その後はインドやビルマなど東南アジアに派遣され日本占領時代に活躍し、戦後は外交官や学者、実業家として日英関係に関わった人材が多数出たのです。
「戦中ロンドン日本語学校」大庭定男著 中公新書は、とても興味深い話だと思うので、ご紹介したいと思いました。
日本からみれば、明治維新で活躍したイギリス人外交官のアーネスト・サトウなど、優秀な外交官で日本研究者がいるイメージですが、この日本語学校が出来るまで、イギリスの日本語や日本文化研究は、ロンドン大学東洋学部だけで、年に10人ほどの学生しかいなかったそうです。
なのにイギリスは当時、東南アジアで日本軍と戦っていたので、前線から日本語のできる者を多数送れという矢のような催促があったのです。
そこで、「馬を盗まれてから、厩に鍵をかけるようなもの」という、イギリスらしい皮肉っぽいことわざが引用されている通り、後手に回った日本語教育が行われることになりました。
日本語が出来る要員をすぐに多数育成しなければという必要に駆られて、イギリス文部省は、短期間で難しい日本語を会得するために、IQの高いグラマースクールの学生を募集したのです。
ラテン語や古代ギリシア語を勉強するような優秀な学生ならば、日本の軍隊用語もすぐ覚えるだろうという発想だったということです。
日本語を教える教師たちは多彩で、日本の高等学校で英語教師をしていたイギリス人、日本人の新聞特派員、留学中の東大出の台湾人の方、カナダ出身の日系2世の方などで、女性もいました。
この養成コースは短期間で落第して脱落する人も多く、かなりの詰め込み教育だったのですが、特筆すべきは、実際、当時は戦っている最中の敵国の日本文化や日本語を学んでも、ひとりとして日本人や日本に対して嫌悪感を持たず、興味をひかれるばかりだったということです。
日本人のおとめ・ダニエルズ先生を守るために、生徒たちが送り迎えをしたという話や、おとめ先生が、卒業して前線へ向かう「ボーイズ」に「私の国の人をよろしくお願いします」と言ったという話は胸が熱くなりました。
ここで学んだ人たち「ボーイズ」は、東南アジアで抜群の働きをし、日本人捕虜を人道的に扱い、日本軍の降伏後も日本軍との連絡や先般調査などでも公正な態度でした。
そして戦後、彼らの多くが日本学者となり、著書を出版して日本理解に多大な貢献をし、外交官や実業家として日本との関係を持ち続けたのです。終戦後のイギリス国内での反日感情をやわらげ、日本の国際社会復帰などにもどれだけ貢献したかわからないとあります。
イギリスではよく日本軍の元捕虜で虐待されたという方がクローズアップされますが、イギリスのエリート達が敵国日本を倒すために必死で日本語を勉強して目的を達し、その後は日本文化に魅了された彼らの働きによって日本は多大な恩恵を受けたという事実は、本当に不思議な話だと思います。
※写真はイメージです。
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