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日本におけるロボトミーを巡る人体実験と殺人事件

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世界中で行われたロボトミー手術は、日本でも取り入れられる。
しかし、世界の事例同様にそれは廃人を生み出す手術であった。
そんなロボトミー手術を巡って、恐ろしい人体実験とついには殺人事件まで起ってしまう。

目次

日本のロボトミー手術と人体実験

日本におけるロボトミーはどういったものであったのであろうか。
世界の例に漏れず、ロボトミー手術は日本でも取り入れられた。1942年、新潟医科大学で日本初となるロボトミー手術が行われ、第2次世界大戦中から各地で広まった。

始めのうちは他国同様、この術式は歓迎されたものの、やはり手術の結果は芳しくなかったようで、ロボトミー手術が世間から批判を浴びるようになると、糾弾を恐れた病院や執刀医師らが手術記録や資料を破棄する例も散見されたという。

また、ただでさえ非人道的なロボトミー手術に加え、この手術にかこつけて人体実験を行った者までいた。
1950年頃、松沢病院に勤務していた精神科医の(後に東京大学教授)は、精神外科医の(後に日本医科大学名誉教授)が執刀する精神外科手術に便乗して、自らの研究用に脳組織を切除することを指示。
約80人の患者本人や家族の同意なく脳の一部を採取したことが、1971年に告発されたのだ。

松沢病院は精神科で名を馳せた病院で、当時、ロボトミー手術も積極的に行っていた。
(なお、現在は特に精神科に力を入れる東京都運営の総合病院となっており、HPによれば精神外科手術は行われていない。)
これが人体実験と称されるのは、ロボトミー手術後に機能を停止した脳の組織を切り取るのではなく、手術によって機能が停止すると思われる組織を予め切除したためである。

つまり、手術手順が組織採取が先でロボトミー手術が後なのだ。
しかもこの実験の被害者には11歳の少女と言った未成年まで含まれている。
成長の過渡期である子どもの脳組織まで奪い去ったのだから恐ろしい。

告発に対し、脳の機能が本当に手術によって停止するのかは、実際に手術が終わってみないとわからないにも関わらず、臺は「廣瀬に頼んで切除させたのは、ロボトミー手術によって機能を停止するはずの部分であるから、自分の生検用の切除は新たな害を患者に付け加えない」と主張。
1972年、日本精神神経学会でこの問題について検討する委員会が開かれ、調査の中で少なくとも計3人が手術によって死亡していたことが明らかとなり、委員会は臺を批判する決議を採択した。

臺は、患者に同意を得なかったことについては、自らの非を認めていいるものの、組織採取自体については、自身が亡くなるまでその正当性の主張を譲らなかった。
また、この手術による死亡事故については、刑事事件に発展したわけではなかったため、法の下に臺や廣瀬の行為が裁かれたわけではない。死者やその家族は、死因がなにかわからぬままにこの一件は幕引きとなってしまったのだ。

ロボトミー殺人事件

ロボトミー手術の最初の考案者であるエガス・モニスも、術式を改良し広めたウォルター・フリーマンも、そしてロボトミー手術を行った多くの医者達も、出発点は患者を精神疾患から救いたいという思いだったはずだ。
しかし、手術やその結果を紐解いてみると、人格を損なうような手術結果や重い後遺症という現実をしっかりと省みていたのか疑わしい。

1度「有効だ」と提示された結果を盲目的に信じ、都合の悪い結果から目を背けているのは、医学の発展という目指すべき道を逆流していようにも思える。
加えて一部では、手術実績を増やして経験を積むため、研究データを取るためといったおおよそ人道から外れた事をしている医者がいるのもロボトミーの恐ろしい点である。

そして、このロボトミー手術を巡り、ついに悲劇が起こることになる。
1979年、9月26日午後10時過ぎ、東京池袋駅近くで挙動不審な男が警察から職務質問を受ける。
調べてみると、男の所持品から血まみれのナイフや他人名義の現金入り給料袋が見つかり、銃刀法違反の容疑で現行犯逮捕される。

そして翌日の9月27日早朝、給料袋に書かれた名義と同じ名前の男性の知人から「(男性の)妻と義母が殺された」と通報が入り、事件が発覚。
男はその後、殺人容疑で逮捕されることとなった。
逮捕された男の名前は桜庭章司。
ロボトミー手術によって、人生を狂わされた人物だった。

貧しい家庭に育った真っ直ぐな青年

桜庭は1929年、長野県松本市の貧しい家庭に生まれた。
幼少期は、少し神経質な所もあったものの、元気で気が強い性格だったという。
小学生の頃に一家は東京に引っ越し、小学校卒業後は、東京高等工学校付属工科学校(旧制高等教育機関の一つで、工業を専門とする旧制専門学校の付属校)に入学したものの、困窮する家を支えるため、1年で退学し工員となる。

戦後は、ボクシングの練習をして大会で優勝、また、独学で英語を勉強して通訳の資格を取得。
占領軍基地のある新潟の電話局に通訳として勤め、アメリカ軍の諜報機関にもスカウトされるなど多方面での才能が開花させる。
一見順風満帆な人生を歩みだしたかのように見えたものの、松本市に戻っていた病気の母親の面倒を見るため、通訳を辞め、実家に帰ることになってしまった。

実家周辺で母親の介護をしながらできる通訳の仕事はなかったため、仕方なく日雇いの土木作業員として飯場で働き始めた。
通訳としての活動の場は奪われたものの、桜庭は若く体力もあり、また、作家になりたいという夢も持っていたようで、状況にめげることもなく必死に働いていた。
この頃の桜庭は、曲がったことや弱い者いじめを嫌う、正義感が強い性格だった反面で喧嘩っ早い一面もあった。

時には、同僚の土木作業員が他の者に殴りかかっているのを見て、ボクシングで鍛えたパンチで叩きのめしたり、手抜き工事を発見すれば、自ら班長に注意しに行くほどだったそうだ。
しかし、そんな彼の性格と行動が裏目に出る。
殴った同僚の土木作業員が、警察に被害届を提出したのである。
また、この暴力事件の捜査の過程で、働いていた会社の社長から「金を脅し取られた」と訴えられてしまう。
桜庭は手抜きを工事を班長に注意した日の夜、社長に飲みに誘われ、そこで口止め料として、金を受け取っていた。
悪い事だとはわかっていたものの、貧しい家庭や夢の実現のことが頭をよぎり、つい魔が差して受けっとてしまったのだ。
それを社長に「脅し取られた」と証言され、騙された格好となってしまったのである。
その後、桜庭は暴行と恐喝容疑で逮捕され、懲役1年6か月、執行猶予3年の判決を受けた。

執行猶予期間中、大人しくしていられればよかったものの、働いていた工事現場で、賃金不払いと不当解雇問題が発生。
真っ直ぐな性格の桜庭はこれを許せず、社長の元に直談判しに行き、再び恐喝容疑で逮捕されてしまう。
これにより、執行猶予は取り消され、桜庭は長野刑務所に収監された。

1961年に出所後、桜庭は再起のため、上京。
鉄筋工として働きながら、通訳としての腕を活かし、翻訳のアルバイトを始める。
忙しい最中、たまたま手に取ったスポーツ新聞に掲載された海外スポーツ情報が適当であると感じた桜庭は新聞社や雑誌社に指摘を入れたことがきっかけで、逆に海外スポーツ記事の執筆を依頼されるようになった。
彼が思い描いた形とは少々異なるかもしれないが、磨き上げた英語力と文章力で夢の一端を叶え、ライターとなったのだ。
仕事も順調に運び、ようやく彼の人生も落ち着くのかと思いきや、再び事を起こしてしまう。

1964年、桜庭は妹宅で母親の介護について話し合っているうちに、喧嘩となってしまい、そこで妹宅にあった家財を壊してしまい、妹の夫に通報され、逮捕されてしまったのだ。
翌日には告訴が取り下げたものの、警察は留置を解くことなく桜庭の前科について調べ、度重なる暴力行為は精神に問題があるためだとし、精神鑑定を実施。
桜庭は精神科医に「精神病質」と診断され、同年3月に強制措置入院させられることなってしまう。

そこで彼は同じ病棟に入院していた若い女性患者が自分の主治医の精神外科手術により、人格が変わり、1カ月後には首吊り自殺してしまったことを知り激怒。
主治医に対し、自分は絶対に手術はしないことを明言し、母親にも家族として手術を承諾しないように頼み、廃人となってしまうかもしれない手術をかたくなに拒んだ。
しかし、これが災いしたのか、桜庭は主治医による手術の対象として目をつけられてしまう。

1964年11月、主治医は年老いた母親を言いくるめ、承諾書を取ると、桜庭に対し、肝臓検査と偽り、チングレクトミー手術(ロボトミー手術の一種で頭蓋骨を開き、脳の動機づけをを司る部位に外科的侵襲を加える手術)を強行したのだ。
手術の効果はすぐに現れ、桜庭はすっかり従順な性格となってしまう。
医者としては手術は大成功に終わったが、桜庭にとっては恐れていた通りの結果となってしまったのだ。

望まぬ手術から約4か月後、かねてから希望が叶い、ようやく桜庭は退院できることになる。
しかしそれすらもタダでとはいかない。
主治医は、退院許可と引き換えにチングレクトミー手術の同意書を後付けで書かせたのだ。
以前の桜庭ならば、このような不正に対し真っ向から反発していただろうが、手術によって変わり果てた彼にはそのような気力がもう残っていなかった。

退院後、ライターとしての仕事に戻るものの、仕事への熱意は減退しており、執筆量は減ってしまった。
また、生活のために重機の運転手などの仕事を始めたものの、こちらも気力がわかず、その上、手術前にはなかったてんかんの発作が起こるようになり、仕事どころではなくなってしまう。

桜庭はその後10年以上に渡り、職を転々としながら、やっとのことで生活できるような状態が続いていた。
その中で彼は自分をこのような状態に貶めた主治医を激しく恨んだ。
そしてついに桜庭は主治医を殺し、自らも生を断つことを決意する。

事件の発生と桜庭の主張

1979年9月26日午後5時頃、桜庭は主治医と無理心中を図るべく、主治医宅に押し入った。
事前に主治医の普段の帰宅時間を調べ、遺書を持参して上での計画的な犯行だった。
デパートの配達員を装い、家に侵入した桜庭は、在宅中だった主治医の義母の手足に手錠をかけ粘着テープで目と口を塞ぎ、その後帰宅した主治医の妻も同様に取り押さえ、憎き主治医の帰りを待った。

しかし、午後8時を過ぎても主治医は家に帰らなかった。
この日、主治医は偶然にも同僚医師の送別会に出席しており、帰宅が遅くなっていたのだ。
そうとは知らない桜庭はやむを得ず、2人を殺害し、物取りの犯行に見せかけるため、現金の入った給料袋などを奪い逃走。
警察の職務質問に遭い、逮捕されることとなった。

その後の裁判では、桜庭の責任能力に焦点が当てられ、争われることになる。
検察側の精神鑑定では、「責任能力あり」と判定されたものの、弁護側による鑑定では「責任能力は減弱してる」とされた。
裁判の過程で桜庭を診察した医師によれば、脳は委縮してしまっており、脳波検査も異常、加えて止血に使用したとみられる金属製クリップが脳に残ったままだったという。

金属製クリップが残存していた点については、手術ミスとして言い逃れできないだろう。
2人の落ち度のない人間を殺害したとあって、検察は死刑を求刑したものの、地裁、高裁共に無期懲役の判決。
最高裁では上告を棄却し、桜庭の無期懲役が確定した。

事件に対する判決は無期懲役であったものの、桜庭が望んだのは最後まで自らに施されたチングレクトミー手術の正当性に対する判断であり、白黒つけるために判決は死刑か無罪にしてほしいと弁護士に語っていたという。 
人間はなにをもって人間なのであろうか。
罪のない人を殺害してしまった点については、弁解の余地はないとは思うが、ロボトミーに狂わされた桜庭の半生を思うと、同情を禁じ得ない。

彼も生きながらにして、自身の人間性という人を人たらしめる大切な部分を他人に奪われた1人なのだろう。
しかし、裁判はあくまで殺人そのものについて起こされたもの。
手術の善悪を問おうとした桜庭の思いが届くことはなかった。
彼の中で事件は未解決のままなのだろう。

ロボトミー手術の廃止

1975年、日本精神神経学会は「副作用に可逆性が無い」として精神外科を否決。
ロボトミー手術の廃止を宣言した。
しかし、厚生労働省はロボトミー手術を禁止してはおらず、保険適応となっている。
学会がロボトミー手術を排除するとしている以上、基本的に手術が行われることはないのであろうが、手術をしたからといって医者が罪に問われることはないのだ。

もしも自分が何らかの病で入院したら、その治療法について素人が口を挟める余地は少ないし、多くの人が医者の言いなりとなるだろう。
果たしてその人は、あなたにとっての神か悪魔か。
私達は医者の良心を信じるしかないのだ。

※画像はイメージです。

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