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肝っ玉ばあちゃんの戦争記

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私が小学生の頃、祖母とその妹弟から聞いた話です。
祖母は7人姉弟の長女。戦時中は九州、熊本にいたそうです。

目次

辛くても明るく

祖母は戦時中、熊本で家族と共に住んでいました。祖母の父親、私の曾祖父は戦争に行ってしまい、生活はとても苦しかったそうです。しかし、祖母は妹弟たちに辛い思いをさせたくないと思っており、家の仕事をしながら、妹弟の世話も積極的に見ていました。

祖母の家には畑があったので食べるものはあったそうですが、イモ類ばかりだったせいか、大人になってからイモ類全般が食べられ無くなったそうです。さらに、畑泥棒も多く、食べ物を守るのにも必死だったと言っていました。

日本がどうなるのかわからない、「この生活が何時まで続くかわからない不安と戦いながらの生活は本当に辛かった」と祖母は何度も言っていました。しかし、祖母の妹弟は「姉さんはいつも明るかった。

本当に不安があったのかなと思うぐらい」といっており、妹弟には不安を見せないように振る舞っていたのでしょう。
辛い状況でも明るく振る舞い、不安と戦った祖母は本当に強いと思います。

本当に辛かったのは戦後

祖母は終戦を伝えるラジオ放送を聞いて、思わず「ばんざーい」と叫び、周囲から叱られたそうです。しかし、祖母はこの辛い生活から抜け出せると思い嬉しくて仕方なくて、叱られたあともはしゃいだそうです。

幸い、曾祖父は無事に帰ってきたので、祖母はこれからは辛い思いをせずに幸せになれると考えていたそうです。
けれど終戦後数年は戦争中よりも辛かったと言っていました。

何もかもが戦争中以上に無く、近所の人からは「食べ物を分けてくれ」と言われて、断りきれず分けたら毎日のように「もっと寄越せ」と言われたり、畑泥棒は増えたりと散々だったと言っていました。
「辛いときこと支え合わなきゃと思っていたけど、親切にしすぎても相手が付け上がるだけだってことが良くわかった」と祖母は悲しそうに言っていました。

辛い状況でも妹弟の面倒を見ながらたくましく生きてきた祖母。頑固者である私の父が唯一言うことを聞く、肝っ玉ばあちゃんとして君臨しています。

※画像はイメージです。

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