銃後のくらし

小さい頃から実家暮らしの中で、一緒に住んでいたおばあさんから聞いた話です。
大正9年生まれのおばあさんはもう亡くなってしまいました、折に触れて戦時中の話をしていました。
多くは私たち孫の食べ残しや、紙などをムダに使うのをみて、もったいないから改めなさいという主旨で、戦時中の暮らしの話が出てきました。

戦争が始まった頃はおばあちゃんが20歳ぐらいで、当時は珍しかった働く女性だったそうです。
小学校の先生をしていて戦争が長引くと、だんだん物がてに入らなくなってきて、紙は字の稽古を裏表にびっしりと練習して、書けなくなったら最後はトイレの紙に使っていたとのことでした。

学校で授業中に空襲警報が鳴ったときは、急いで子どもたちを防空壕に避難させて警報が終わるまで長く感じたそうですが、一番恐ろしい時間だったと言っていました。
一度、学校から帰っているときに空襲警報が鳴ったことがあって、飛行機が自分たちの上を飛んでくるたびに溝の中に伏せて隠れたことがあったそうです。

また食べ物の確保が難しかった時代でした。
幸い兼業農家で自分の田畑に米と野菜を作っていたので、食べる分はなんとかなったけど、それでも親戚に分け与えていたのでギリギリだったようです。お肉は自分の家で飼っているニワトリのうち、卵を産まなくなった老齢の鳥を捌いて食べていたとのことです。

調味料が配給になって、薄味のものを食べてそれに慣れてしまったためか、私の母が嫁に来たときに味が濃いと言ってうるさかったと、母が話していたのを思い出しました。
食糧難といえば、学校の運動場をさつまいも畑にしていた時期もあったと言っていました。

おじいさんは私が生まれる前に亡くなりましたので、おじいさんの話はよく聞いていないのですが、出征はしたとそうです。
おばあさんはもう二度と会えないと覚悟したけど、田舎で昔のことなので、自分の気持ちをはっきりと言うことはできずに、みんなといっしょに送り出したんだそうです。


ひろ
おばあちゃん子でした。

※画像はイメージです。

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